ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
- ページ
- 115/286
このページは The Journal of Humanitarian Studies の電子ブックに掲載されている115ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは The Journal of Humanitarian Studies の電子ブックに掲載されている115ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015らもうアポをとるために、宮内庁に盛んに連絡を入れていたんですね。しかし、開催年の初めにやっとお伺いすることができた。前年暮れのスマトラ島沖の地震・津波の救援についてのご報告で、東浦さんも一緒に行かれた。ご報告が遅くなってしまったのですが、藤森社長は決して言い訳しなかったですね、一言も。ただもう恐縮している限り、もうただ「申し訳ありません」ってね、もう平に頭を下げるだけなんです。ものすごく立派だなと思ったですね。何かもう人の責任にするようなことを決しておっしゃらなかった、藤森社長は。僕、あれは、その後の仕事をする上で非常に参考になった。相手の立場を思ってただひたすら「申し訳ございませんでした」という一言で。30分たって東浦さんがスマトラ救援活動についての報告が終わってから、万博出展について、ご報告させていただきました。何回もアポを入れて、ずうっと駄目だった、もう夏ごろからずうっと入れていたんですね。で、結果的に翌年の初めになってしまったんです。田島:三根さん、しかもね、藤森社長のお辞めになる年にぶつかるんだよね。三根:そうなんです。出展準備プロジェクトチーム東浦:万博への出展は、これ大変にハードルが高いものがあると思うんです。それについて、丹青社にお願いをしようじゃないかということになったいきさつというのはどうだったんですか。井上:業者選定の話ですか。確か企画入札で幾つかの社にプレゼンしていただいたと思います。その中に丹青社さんが入っていた。それからあと、乃村工藝さん、それともう一つはムラヤマさん……。それとあと、広告代理店関係の会社だったでしょうか。電通だったかな?確か4~5社だったと思います。企画案のプレゼンしていただいた中で、最終的にはあまり社名をそのときはよく存じ上げなかった丹青社さんのが好評だった。西の乃村、東の丹青といわれていたようですが、丹青社さんは、私自身あまりよく知らなかった。でも企画の内容が良かった。丹青社さんは、万博の3年前の2002年の日本赤十字社125周年記念展の展示企画をお願いした経緯もありました。三根:もう全員一致で、もうこれでいこうと言って、そのときに、総務局長も、それでオーケーを出してくれたときはもうほっとしましたね。これで割れたら大変だなと思ったけれども、やっぱりわれわれの目つきが違ったんじゃないですかね。やっぱりもう丹青社さんで、もうこれしかないというような感じで申し上げたら、「じゃあ、それでいいんじゃないか」ということで、もっともめるんじゃないかなと思ったけれど、それはほっとしたところですね。井上:そうですね。そのときからある意味で相性が合ったのかもしれません。東浦:丹青社さんとして、どういうプレゼンをそのとき最初にされたんでしょうか。洪:その企画選定のときは、実は私は直接関わっていません。会社としては125周年事業でお仕事を頂いていて、その絡みもあって営業の鈴木が万博に向けてのご提案を差し上げたと記憶しています。ただ、万博というのは極めて特殊な施設なので、実際には何が一番いいのだろうかという白紙に近い形でのスタートでした。私はそのときから関わらせていただいたということだったと思います。東浦:その時プロジェクトみたいなものがつくられましたね。そこに私も加えていただいたんですけれども、田島さん、そのときの模様といいましょうか、これだけは絶対に曲げないぞというようなお考えがありましたよね。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015113