ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015明した。幸いにも、日本使節団の随員らは、この上もなく好意的に我々の話に耳を傾けてくれた……(中略)……。団長の全権大使岩倉具視閣下、副使の伊藤博文閣下は、……(中略)……真摯に傾聴して下さり、我々の刊行物を受取って下さった。」(3)当時のCICRの総裁であったモワニエの邸宅を、岩倉使節団が訪問したことがわかる。こうした動きも加わり、前述した佐野常民は、日本に帰国してから、「博愛社」を設立した。これが、その後、名称を変え、「日本赤十字社」となっている。このような次第で、アンリ・デュナンの始めた赤十字思想が日本赤十字社と結びついている(4)。ちなみに、現在の日本赤十字社社長であり、国際赤十字・赤新月社連盟会長でもある近衞忠煇社長は、偶然にも、アンリ・デュナンと同じ5月8日に出生している。「Ⅱ.ジュネーヴ条約批准後の日本における赤十字活動」戦時救護の面で、日本の赤十字活動は顕著な動きを示している。その最初の現場となったのは、内戦とも言うべき西南戦争である。続いて、国外が戦場となった、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦でも、日赤救護班は、敵味方を区別することなく、負傷者を手厚く救護している。第一次世界大戦後、戦時救護を目的としていた赤十字活動に、大きな変化が加わる。それは、戦争のない平時においても、各国赤十字社は、大きな自然災害が起こった場合に、相互に協力して人道活動を実施すべきだという動きである。こうして、1919年5月に発足したのが、国際赤十字・赤新月社連盟である。その発案者の一人が、日本人国際法学者蜷川新である(5)。その具体的動きとして挙げておきたいのが、1920年、1922年に実施された、ポーランド孤児救済活動である。第一次世界大戦、そしてロシア革命の影響により、ポーランドでは多数の戦災孤児が出た。ポーランドだけでは対応しきれなくなり、ポーランド赤十字社からの要請により、日本政府外務省の仲介で、日本赤十字社が受入先となり、実施された活動である(6)。1934年には、東京において、「第15回赤十字国際会議」が開催された。ここでは、第一次世界大戦での教訓に基づき、戦時における民間人保護を呼びかけた、東京宣言が出された(7)。第二次世界大戦末期に広島に原子爆弾が投下され、多数の死傷者が出た。日本の敗戦直前に来日した、CICR駐日代表部首席代表マルセル・ジュノー博士が、連合国軍に要請して、大量の医薬品を空輸させている(8)。「Ⅲ.第二次世界大戦中の日本国内における赤十字活動」実のところ、日本赤十字社において、第二次世界大戦中の社内文書は、段ボール箱にして数個分しか残っていない。しかも、その内容も断片的でしかない(9)。しかし、ジュネーヴのCICRアーカイヴや、ベルンの連邦公文書館の史料とも比較対照していくと、徐々に、「第二次世界大戦中の日本国内における赤十字活動」の実像が明らかになってきた(10)。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015141