ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015太平洋戦争が勃発すると、日赤社内には外事部(現在では、国際部)に、「俘虜救恤委員部」(WarPrisoners’Relief Committee Departement)という部署が臨時に設置された。島津忠承(しまづ・ただつぐ。1903-1990)副社長を委員長に、その下に数名の課員が配置された(11)。他方、CICRは、スイス人医師ヤコブ・アウグスト・フリドリン・パラヴィチーニ、略してフリッツ・パラヴィチーニ博士をCICR駐日代表に任命した。スイス中央グラーリス出身のパラヴィチーニは、1905年に来日して以来、横浜市内本牧(ほんもく)で外科医院を開いていた。第一次世界大戦中にもCICR駐日代表として、日本国内の俘虜収容所を視察している。1934年に東京で開催された第15回赤十字国際会議に、CICR代表として参加してもいる。日本事情に通じ、赤十字活動にも熟練した人物だった(12)。こうして、日本軍支配下での赤十字活動は、日赤の俘虜救恤委員部と、パラヴィチーニCICR駐日代表との間の連携で進められることになった。ここに、従来の俘虜救援に新たな業務が加わった。それは、民間人抑留者への救援、更に南方方面(シンガポール、ボルネオ、香港、タイ、マニラ等々)に展開するCICR代表らとの連携である。更に、パラヴィチーニは健康を病んでもいた。このため、アシスタントを加えた駐日代表部を発足させることになった。そのアシスタントとなったのが、チューリッヒ出身のマックス・ヨハンネス・ペスタロッツィ、そしてハインリッヒ・アングストである。ペスタロッツィは、チューリッヒに本拠を置くシャルル・ルドルフ商会(アジアからの絹織物を取扱う)の横浜駐在員だった。他方、アングストは、横浜に拠点を置くシーベルヘグナー社(現在、DKSHジャパン株式会社)神戸支店に勤務していた。事務所も、パラヴィチーニの個人診療所から、ペスタロッツィそしてアングスト、それぞれの勤務するオフィスへと移動した。そして、日本人従業員らが、そのスタッフとして参加した(13)。しかしながら、パラヴィチーニらの活動に、日本側官憲は非協力的であり、時には検閲あるいは監視したりさえした(14)。収容所を視察しても、俘虜あるいは被抑留者らと「立会人抜きの自由面談」は、禁止されていた(15)。当然、CICR代表部の活動は実効的ではあり得ない。このため、日本国内の俘虜収容所での捕虜虐待の責任をパラヴィチーニらに追わせる見方もある(16)。これに対しては、一つの事実を挙げておきたい。1943年11月に大阪俘虜収容所で、収容中のアメリカ兵捕虜らの間に、赤痢が蔓延し、多数の死者が発生した。当時の軍部には、医薬品の持ち合わせがなかった。唯一、アメリカ赤十字社が送られてきた医薬品をCICR駐日代表部が保管管理していた。それを知った軍部は、日赤を介して、CICR駐日代表部に医薬品の提供を求めてきた。CICR駐日代表部が医薬品をその倉庫から出すにあたっては、提供元であるアメリカ赤十字社の許可が必要だった。しかし、事態は一刻の猶予も許さなかった。日赤俘虜救恤委員部の島津委員長は、戦後の回想録の中で、次のように回顧している。「日赤は決して流用せず、捕虜のためにだけ使うから、医薬品を渡してくれないか。これは、人道のためだと思うが」とパラヴィチーニを説得したという。これに対し、パラヴィチーニは、しばらく考えたのち、「よくわかった。日赤を信用しよう。医薬品を融通しよう」と答えたということである(17)。こうして、CICR駐日代表部が保持する医薬品(オリザニン注射液、葡萄糖注射液)が、大阪俘虜収容所に急遽送付された。応急の措置であったため、当時のCICR駐日代表部は書類を作っていない。日赤本社旧社内文書に、応急供与のための事務文書が残っているのみである(18)。この結果、大阪俘虜収容所では、赤痢が鎮静化された。残念ながら、パラヴィチーニは持病を悪化させ、1944年1月末、横浜市弘明寺で急死した(19)。死後、142人道研究ジャーナルVol. 4, 2015