ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015ペスタロッツィそしてアングストが日本人スタッフと共に、CICR駐日代表部を運営していった。人員補充のため、1944年9月には、当時上海にあったアルミニウム・バルツヴェルケ・フーエル・ヒーナ社に勤務するフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ビルフィンガーがCICR駐日代表部へ加わった(20)。こうして、駐日代表部は3名のスイス人代表により運営されることになった。しかし、3名とも実業界から臨時採用されたのであって、もともと赤十字活動について正規の研修や訓練を受けてはいなかった。経験豊富なリーダーを必要とした。そこで、CICR本部は、スイス外務省、駐日スイス公使館と連絡をとりながら、パラヴィチーニ没後の後任駐日首席代表の人選を慎重に進めていった。対象となったのは、在日スイス人はもとより、スイス国内では、軍人、国際関係論研究者、日本国内の医師免許を有する医師等である(21)。その結果、任命されたのがマルセル・ジュノー医師である。彼は、既にエチオピア戦争、スペイン内乱で、CICR代表としての豊富な経験を積んでいた(22)。しかし、彼にとり、日本は全く未知の地だった。そこで、中央捕虜情報局アメリカ部長(cheffedu Service americain de l’Agence centrale des prisonniers de guerre)のマルガリータ・シュトレーラー(Marguerita Straehler)を技術助手(assistante techinique)として随行させることにした。シュトレーラーは横浜で生まれ育ち、日本語を話し、生前のパラヴィチーニと個人的にも面識があった。ジュノー新首席代表の下でのCICR駐日代表部の活動は、本稿「Ⅱ.」で前述したように、よく知られている。では、ジュノー到着前のCICR駐日代表部と日赤俘虜救恤委員部の活動は全く無意味だったのだろうか。これら二つの組織は、非協力あるいは監視に曝されていた。それでも、第二次大戦末期にあっても、三重県の入鹿(いるか)村(現在、紀和町)にあった俘虜収容所に赤十字救援物資が届いている(23)。また、沖縄特攻前夜の戦艦大和に乗艦していた日系二世海軍士官のもとに、赤十字通信にて、アメリカの抑留所に抑留中の母親から最後の書簡が届けられている(24)。これらの事実は、CICR駐日代表部と日赤俘虜救恤委員部の業務が細々とではあれ、続けられていたことを物語っている。更に、前述のビルフィンガーは、1945年8月30日に尾道から緊急援助要請電報を打電した後、翌8月31日付の書簡で、東京のジュノーにあてて次のように述べている。「私どもは広島に1日と半日の間、滞在しました。このときのことを、私は生涯忘れないことでしょう。現時点までに、私が打電した電報をあなたは受信されているはずです。打電した内容は決して誇張したものではありません。できるだけ早い機会に、現地に来てこの惨状をあなた自身の目で確かめることを、私は強く進言します。……(中略)……何らかの処置を急いで執らねばなりません」(25)事実、ビルフィンガーが強く進言したように、「何らかの処置」が「急いで執ら」れた。それが、ジュノー博士による広島視察と、医薬品空輸である。以上、岩倉使節団による欧米使節から第二次世界大戦での敗戦を迎えるまで、赤十字と日本との関係を概観した。「人道研究ジャーナル」誌の読者の御参考となれば、幸いである。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015143