ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015<講演録から>日本人がその創設に影響を与えた国際機関1東浦洋はじめに日本人がその創設に積極的に参画し、大きな影響力を及ぼした国際機関がある。国連総会、経済社会理事会などで、「オブザーバーとして参加するために招待を受ける国際組織」の一つである。ユニセフ、世界保健機関(WHO)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)など、国連諸機関の中で人道支援分野にかかわる組織や国際オリンピック委員会(IOC)などとの間に協定を持ち、オクスファム、カリタスなど主要な国際NGOと緊密な関係を持って、世界の人道分野をリードしている機関である。その設立年月日は1919年5月5日。国際赤十字・赤新月社連盟(以下「連盟」)である。連盟は各国赤十字社の連合体として、救援や開発事業の推進・調整機能を果たしている、世界最大の人道ネットワークである。日本赤十字社をはじめ、現在189の赤十字社・赤新月社がそのメンバーとなっている。どのような経緯で、国際赤十字・赤新月社連盟(以下「連盟」)が創設されることになったのか、またその創設に至る過程で、日本人がいかに影響を与えたのかについて述べることにする。人道使節の欧米慰問派遣1914(大正3)年7月、ヨーロッパにおける戦乱の勃発以来、日本赤十字社は同盟各国赤十字社に対し、救護班を派遣し、救護資材を寄贈してきた。日本赤十字社の救護班が派遣された国はイギリス、フランス、ロシアであった。ロシアへは20人を派遣し、サンクトペテルブルクの「日本赤十字社救護班病院」において活動した。1914年10月~1916年4月までの476日間で、延4万3,531人の患者を診療・看護した。フランスへは、31人が送られた。パリのシャンゼリゼにあるアストリア・ホテルを病院にして活動した。1914年12月~1916年7月までの502日間で、取り扱い患者数は延5万4,832人であった。イギリスへは、26人を派遣。ロンドン南西約100キロのネトリー(Netley)の陸軍病院で活動した。この病院はフローレンス・ナイチンゲールが、時代遅れでひどい欠陥が放置されているとして、建設の中断を運動したが、そのまま建築されたという謂れのある病院である。1914年12月~1915年12月までの334日間で、延2万3,405人の負傷兵を診ている(1)。日本赤十字社は、1918(大正7)年7月、遣外慰問使として、日本赤十字社常議員公爵徳川慶久を派遣することにした。徳川第15代将軍徳川慶喜の七男である。徳川公を団長とする人道使節は、各国へ救援物資を届け、慰問すると同時に各国赤十字社の救護1日本赤十字看護大学特任教授・日本赤十字社参与・日本赤十字国際人道研究センター長この論考は、NHK文化センター青山教室で講演・収録され、2010年2月の毎週日曜日20時から21時までのNHKラジオ第2「NHKカルチャー・ラジオ」において「人道の旗の下に~赤十字150年」と題して放送された講演の第3回「日本人がその創設に影響を与えた国際機関」のための覚書メモを下敷きに、加筆修正したものである。掲載にあたって、赤十字加盟社数などを直近のものに変更した。146人道研究ジャーナルVol. 4, 2015