ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015事業を調査研究し、日本赤十字社の事業の参考にするという目的もあった。一行は赤十字の医師ら合計7人であったが、この中に、この使節団のために日本赤十字社から外事顧問として委嘱された蜷川新(1873-1959)がいた(2)。一行はアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、スイスと回り、最後にジュネーブのICRCを訪問した。(3この慰問使の行動については日誌の形で報告書)が残っている。また、蜷川は「人道使節の慰問日記」を彼の著作『人道の世界と日本』で公表している(4)。慰問使の行動の詳細を述べる紙幅はないが、今回の話を進めるために要点だけ述べておく。船上でのアメリカ人によるアメリカ赤十字戦時活動募金に、蜷川は「抜け目なきに感心」(5)と書いている。7月19日午後1時半にホワイトハウスでウィルソン大統領に謁見。大統領は、日本赤十字社を賞揚した。当時、アメリカ赤十字が日本赤十字社の活動をどのように見ていたかは、その前日にアメリカ赤十字で行われたデヴィソンの歓迎挨拶に見ることができる。この時、「婦人二千人集まり、非常なる歓迎であった」(6)とある。ヘンリー・P .デヴィソン(Henry Pomeroy Davison, 1867-1922)はもともと銀行家で、アメリカの大戦参戦により、赤十字活動資金集めのために設けられた赤十字戦時評議会会長の職にあった(7)。要約すると、彼は次のように歓迎の辞を述べている。戦前世界の赤十字社は、唯一の社を除き、日ごろの活動よりも、戦時のための潜在力として考えられてきた。唯一の例外とは日本赤十字社のことであり、開戦当初、アメリカ赤十字のメンバーは約20万人であったが、このとき日本赤十字社は180万人のメンバーを擁し、世界第1位であった。人道のために大組織を初めて作った日本の先見に敬意を表する。自国の危機に際し、自国民のために貢献したばかりか、他国民のための尽力も多大なものがある。われわれは人類幸福のために、どこにおいても日本赤十字社と協力していきたいと思う(8)。蜷川のデヴィソン評は次のような記述に見られる。アフリカでの猛獣狩のことを話し、戦後にはシベリアへ行って虎狩するから、「貴君は世話せられたしと言った。商人とも思われず、1個の英雄らしき人物・・・確かに偉人であり、ルーズベルトの親友であった。」(9)一行は20日にはデヴィソンの案内で、ロングアイランドまで足を伸ばし、彼の別荘に宿泊。20分前に長子戦死の訃電を受けたばかりの前大統領セオドア・ルーズヴェルトの私邸を表敬訪問している。7月30日にニューヨーク港からイギリスの汽船「メガンチック号」に乗船。この船は米兵輸送船として使われており、同乗将校兵士は約1,000名、アメリカ赤十字看護婦約100名が乗船していた。同行の汽船16隻、ドイツの潜水艦攻撃を避けるために、イギリスの巡洋艦1隻、アメリカ潜水艇破壊艇1隻が前後を警備し、その他大小の水雷駆逐艇十数隻が船列の左右を護衛し、先頭および後尾に各1機の飛行機が海上を巡視するというものものしい体制での出港であった。「平時の楽しき大西洋航海とは、全然趣をことにして居った。ともに死地に乗り入るのである。」(10)と蜷川は書いている。8月16日のイギリス赤十字の公式招待会において、同社の社長スタンレーは日本赤十字社救護班の活動に対して謝意を表明している。その後、フランス、べルギ―、イタリアへの旅になる。8月17日の蜷川日記には「各人の荷物はスーツケース1個宛とさだめた。愈々戦場に行くからであった。」(11)とある。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015147