ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015不安定で多極的な世界アンリー・デュナンの時代、戦争は勇敢な行為として、また、君主間および国家間の国際的な不和を解決する完全に正当な手段として認識されていました。クリミア戦争(1853-1856)を皮切りに、19世紀後半は不安定性と紛争に特徴付けられる時代となります。ICRC設立時、アメリカでは南北戦争(1861?1865)が繰り広げられており、フランスとメキシコの間で植民地戦争が行われていました。また、ヨーロッパ諸国は領域をめぐり対立しており、各国が武力による征服で新たな領地を切り開いていました。ドイツの統一をもたらした、1866年の普墺戦争および1870年の普仏戦争はその一例です。「瀕死の病人」と呼ばれたオスマン帝国の衰退が進み、その遺産をめぐってヨーロッパ列強が争いを繰り広げたのです。その後、二つの世界大戦が展開され、国連憲章において武力行使が普遍的に禁止されるまでに、80年の月日を要しました。新たな戦争行為の幕開け18世紀終盤、数々のイノベーションが組み合わさり、戦場に恐ろしい影響を及ぼします。犠牲者の数がますます増加し、それは第一次世界大戦で頂点に達します。その第一の理由として、徴兵制が挙げられます。フランス革命以降ヨーロッパ各国で導入された徴兵制によって予備の兵士が多数集められ、兵士が消耗品として認識されるようになったのです。第二に、弾道学や爆発物の進歩を受けて、より精密で強力なライフルや銃が発明され、大量生産されました。第三に、鉄道技術の発展によって、前例を見ない早さと規模で軍隊を収集、移動することが可能になりました。このような理由から、19世紀の戦闘行為は数時間に何万もの兵士が負傷または死亡する、大規模な惨事を引き起こしました。とはいえ、この戦闘行為が地理的な「戦場」に留まる形で展開されていたのも事実です。そのため、民間人が直接的な影響を被ることは比較的稀な出来事でした。例えば、アメリカ南北戦争の転換点となった、1863年7月のゲティスバーグの戦いでは、3日間で4万6000人の兵士が死亡、負傷、行方不明、捕虜の何れかの形で戦闘能力を失いました。しかし、戦いの犠牲となった民間人はたった一人でした。しかし、このような戦闘体系はその後すぐに変化することになります。1870年の普仏戦争は一般市民に壊滅的な影響を及ぼしました。■人道支援活動と人道法の誕生ICRC創立者であるアンリー・デュナンは、1859年のソルフェリーノの戦いで負傷兵が戦場で痛みに苦しみながら死んでいく姿を目撃し、その惨事に愕然とします。当時、軍が提供する医療サービスは全く不十分なものであり、大国の軍でもその重要性は軽視されていました。個々の兵士の運命というものは、軍の関心事の一つではなかったのです。このような状況を受け、デュナンは双方の負傷者を救援および治療するために、即興の活動を展開しました。この戦場での経験をもとに、デュナンは著作「ソルフェリーノの思い出」を出版し、その中で国際赤十字・赤新月運動および国際人道法の種を撒きます。この本は社会に大きな影響を及ぼしましたが、出版以前から救援活動の展開や、全面的な紛争を制限するための緩和的な原則の導入を呼びかける声が、世界各地であがっていたのも事実です。例えば、修道会や、フローレンス・ナイチンゲール、クララ・バートンなどの慈善家が戦場における医療・救援活動を展開していました。特にナイチンゲールは、当時既に軍の医療サービスを見直すよう主張していました。その場しの人道研究ジャーナルVol. 4, 201513