ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 20158月21日にシャンゼリゼにあるアストリア・ホテルを訪れ、日本赤十字救護班の活動を病床日誌用紙や薬局の医薬品などに見ている。当時はイギリス赤十字の救護班が活動しており、蜷川は「日本赤十字が、引き続き今日まで病院を開始しあらざりしを遺憾に思はれた」(12)と記している。その後、在フランスのアメリカ赤十字事務所や第9アメリカ赤十字陸軍病院などを訪問している。日露戦争に際し、朝鮮、中国北東部、樺太にも従軍したことのある蜷川は、欧州の惨禍は比較にならないほど恐怖すべきものであったと後年になって書いている。「戦線に近き市街は、悉く破壊せられ、唯だ石と煉瓦の不秩序なる堆積と一変した、恰もポンペイの廃墟の如くであった。北仏の大森林は砲弾にて一掃せられ、・・・無数の枯れ木の林立と化していた。・・・彼我の大砲弾にて、地上を蜂の巣の如くに、非常工作したのであった。一見真に愴惨の気に打たれた・・・積年仏国農民の日夜の苦心は、戦禍の為に四年に亘りて弄ばれ、アフリカの荒野の如くに変化した・・・仏北至る所の工場は・・・根底的に破壊し尽くされたのであった。即ち之れ文明の破滅也。住民は罪なくして殺され、故なくして夫婦兄弟は離散せしめられ、一切の財宝は敵より盗み去られ、婦人の貞操は汚され、衣は破れ、食は尽き、人生の望みは、全く絶えたるが如き有様であった。世界の歴史上、斯る大悲惨事は、未だ曾てなかりし所である。血あるもの涙あるものならば、世界に再び斯る悲惨事を生ぜしめざることを人類の為に祈らざるを得なかったのである。」(13)一行は8月29日にベルギーに入る。9月2日には病院の庭に赤十字のマークを巨大に記して、空中からも病院であることを認識できるようになっている病院での夕食会に臨んだ。その会食に(14出席していたアメリカ赤十字の温厚なる教授)に「向後赤十字の活動は平時にも及ぼすべき」を説き、同氏の共鳴を得ている。二人は1919年4月にカンヌで開かれた赤十字会議の折に再会している(15)。その後、イタリアを訪問し、9月19日に一行はミラノからスイスに入った。翌日ベルンで大統領に謁見の後、内務大臣アドール(Gustave Ador) (1845-1928)と会った。彼こそ、モワ二エ(GustaveMoynier)の死後、1910年から1917年の間、赤十字国際委員会(ICRC)の総裁であったが、内務大臣の後、1919年にはスイス大統領となった人である。この間ナヴィーユ(Edouard Naville)が総裁代理となっているが、実質的にはアドールが1910年から1928年まで、ICRCのトップであった。彼の赤十字歴は彼が25歳の時、1870年に始まるそうで、政治家としての要職を務めながらも、赤十字と58年間にわたって関わった人であった。ちなみにアドールのジュネーブの家はモワニエが住んでいた館である。この時、アドールは73歳。蜷川は45歳であったが、アドールに対して、ジュネーブ条約を改定して、平時の赤十字活動にも摘要できるようにすべきであると提案している。これに対して、アドールは「赤十字条約は容易に改正し得可きものにあらず」と冷淡に答えたと言う。「世の如くに、赤十字事業を平時に拡張するに付いての意見を、予め有し居らざる人なる」を知り、蜷川は落胆する。「余を目して、白面の一青年の如くに認めたようだ。」と日記に書いている(16)。24日にはジュネーブのICRCを訪問し、捕虜交換などの業務を視察とある。この時、ドイツに捕虜となっている日本人の通信・慰安救済の方法に関して意見交換を行っている。日本にいるドイツの捕虜の通信について「色々要求があった」(17)。午後の歓迎会の席上で、蜷川は刑法学者で委員のゴーチェ(Alfred Gautier)と赤十字条約のことについて意見を交換しているが、ゴーチェは「直148人道研究ジャーナルVol. 4, 2015