ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015ちに賛成しなかった」とある。但し歴史家であるクラメル(Renee-Marguerite Cramer)嬢は、「大いに余の言に耳を傾けられた」と書いている。蜷川が平時に赤十字事業を行う必要を口頭で提唱した時に、もっとも早くこれに同意したのは彼女であった(18)という。1934年東京で開かれた第15回赤十字国際会議に参加した彼女を、蜷川は日光に案内し、家康と秀吉について話をしたところ、信長はどうなのと質問されたとのことで、歴史家はさすがに違うと関心している(19)。ちなみに彼女は、第2次世界大戦下におけるICRCのナチス・ドイツへの関わり方に危機感を示したICRCの少数派委員の一人でもあった(20)。徳川一行は、10月1日にジュネーブからリヨンに到着。リヨンで徳川公爵は当時流行のスペイン風邪に罹り、高熱を出したが、フランス人の医師の診察を受け、食事その他に細心注意し、ホテルで安臥されて、幸い大事に至らなかったと報告されている(21)。ここで一行は現地解散し、蜷川はパリに残留する。「兼ねての希望でも在り、此の未曾有の重大事件を研究せざるは、学問及国家の為めに遺憾也」(22)と考えたからであり、翌年の8月、ヴェルサイユ会議の終了までパリにとどまり、陸軍と日本赤十字社の両方から任務を与えられ、終始尽力した、と釈明している(23)。11月11日の休戦協定の調印の知らせを、蜷川はパリで聞いたのである。蜷川新ここで、蜷川新の生い立ちについて見ておこう。彼の父は旗本で、母は建部藩藩主の娘。旗本小(24栗忠順)の義理の甥に当たる。因みに蜷川新の祖先は、室町時代の政所代を代々務めた蜷川新右衛門で、アニメの「一休さん」に登場するのは新右衛門親当。現代の元K-1ファイター武蔵は蜷川新の曾孫である(25)。「私は、1873(明治6)年に生まれた。そうして7日ののちに、父を失った。」と蜷川は「私の歩んだ道」を書き始めている(26)。「生まれながらにして、逆境におかれた不運な一人間であった」と書く。母の縁を頼って東京に移り住む。最初、海軍を目指して兵学校の試験を受けるが、「虫歯が一本多い」という理由で、体格試験ではねられた。1890(明治22)年第一高等学校に入学。仏文科に入り、外交官を目指した。卒業後、一年志願兵として軍隊に入り、軍事を心得、後年の外交官としての活躍の参考にすることを決心したと書いている。23歳で近衛第四連隊に入営し、3ヵ月軍隊生活をした。少尉で軍務を終え、東京帝国大学の法科大学校に進学した。有賀長雄のもとで国際法を専攻し、1901(明治34)年に卒業。大蔵省の関税課に勤務する傍ら、外交官試験を受けている。試験でフランス文の訳を求められたが、単語が2つ分からず、意味が取れないと答えた(27ところ、教えてやろうと試験官である石井菊次郎書記官)に言われた。石井の折角の助け船に、「試験場に出てきて、知らない文字を教えられては、私の不名誉である。」と蜷川はキッパリと答えたところ、石井は少しく怒気をふくんで、「それならば、もうよろしい」と言われ、それで落第ときまった。蜷川はそれも運命だと思うとともに、官吏はむかないと考え、大蔵省も辞めてしまった。読売新聞の臨時記者となり、「岳南」のペンネームで政治論を書き、「自由で、はなはだ愉快」であったと書いている。伊藤内閣の大蔵大臣であった渡辺国武子爵が辞職し、電報新聞を発行することになったことから、その新聞に転じた。その頃、大学院に席を置き、学者を志していたようである。日露戦争勃発にあたり、召集され第一軍司令部付きの国際法顧問として、1年間満州の戦場で過ごしている。1905(明治38)年3月、名古屋俘虜収容所付に転じ、さらに同7月、樺太軍の国際法人道研究ジャーナルVol. 4, 2015149