ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015顧問として従軍している。戦後は旅順外国人財産整理委員をへて、韓国政府の宮内府官吏となり、宮中の「一大改革をおこなう任務を与えられ、(伏魔殿の)宮中の大粛正」を行ったと書いている。韓国で6年間勤めた。1912(大正元)年、京城で博士の学位を得た。これを機会に学界の人間へと転身し、ウラジオストック、モスクワ経由でフランスに留学。このときに、のちに総理大臣となった田中義一と親交を結んだ。1914(大正3)年9月に日本に戻り、帰国後同志社大学教授に就任し、国際法や外交史を教えたが、同大の内紛に巻き込まれ3年後に辞任。一時健康をそこない、京都から大磯に閉居していたところ、1918(大正7)年の春、日本赤十字社の石黒社長からの要請で、慰問使に加わるよう求められた。第2次世界大戦後は超国家主義者として公職追放となったが、1952(昭和27)年に『天皇-だれが日本民族の主人公であるか』を記し、論壇に返り咲いている。小栗の親戚筋だからか、明治維新そのものに批判の矛先を向けている。1959(昭和34)年8月17日に亡くなった。それまでの赤十字の平時活動アンリ・デュナンは、『ソルフェリーノの思い出』の中で、「この種の救護団体が作られ、常設的な存在になったとしても、むろん平時には不活発な状態にとどまるであろう」と書いている(28)。1867年、パリ万博の際に開かれた赤十字国際会議において、赤十字の事業を平時に及ぼす必要を唱えた人もあった。ドイツでは看護婦養成をし、赤十字の平時活動として平時に一般の人を看護するという考えが出てくる。1869年ベルリンで開かれた赤十字国際会議では、赤十字は平時においても人道事業を実施するということを決議したいという考えもあったが、そこまでは踏み切れなかった。決議されたのは「平時に住民を苦しめる災害に際して、援助し救護することは、各社の力強い発展の一条件であり、その社の平時活動にとって有効な準備である。それゆえ、救護社は平時において、戦時義務に匹敵する人道的事業、すなわち戦争と同様に迅速かつ組織化された援助を必要とする公共の災害の場合に救護を供与することに努力する。」(29)ということであった。1884年ジュネーブで開催された赤十字国際会議において、アメリカとギリシャの代表は赤十字の平時事業実施について熱心に発言した。しかし、決議としては結実していない。森鴎外が通訳として参加した1887年のカールスルーエにおける赤十字国際会議でも、決議されたのは戦時事業だけであった。1892年のローマにおける会議では、ドイツは「戦時のみならず平時にも篤志看護婦隊をつくる必要性」を提案し、ロシアは「全ての階層の人々に赤十字の観念を鼓吹する」という提案を行っているが、決議にまでいたっていない。1897年のウィーン会議では、肺結核予防の提案が提出され、次回に具体を協議することになった。5年後にサンクトペテルブルクに開かれた赤十字国際会議では、「各国赤十字社は、平時において積極的な活動を行うことによって、各社の本務である戦時活動の準備をすることが最善策である。・・・公共災害の場合に住民のための救護事業に赤十字が参加することを、かかる意味において承認する。」(30)という決議がなされている。日本の平時活動についても概観しておこう。1886(明治19)年に博愛社病院(現日本赤十字社医療センター)が設立された。1888(明治21)年7月磐梯山噴火で死傷者500名が出た際に、日本赤十字社は救護員3名を派遣し、初の災害救護を行った。平時災害救護の先駆的な例の一つである。「日本赤十字平時災害救護発祥の地」記念碑が五色沼入口駐車場の一角にある。(1989(平成元)年9月25日建立。)150人道研究ジャーナルVol. 4, 2015