ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 20151889(明治22)年6月14日に「日本赤十字社看護婦養成規則」を制定。同年11月に「第一回看護婦生徒募集並養成手続草案」がまとまり、生徒募集を10名と定め、翌年から養成を開始した。1891(明治24)年濃尾大地震(死者7千余人、負傷者1万7千余人)において、第一回生10名全員を含め、看護婦20名が救護班に加わり、救護活動を行なった。養成開始当初は戦時救護を養成の目的としたが、この災害時の看護師の活躍から日本赤十字社における看護婦養成の目的に災害時の救護が追加されたのである。アメリカ赤十字は、同社の事業振興のために、日本赤十字社の事業視察団を送ってきた。同社の理事ボールドマンMabel T . Boardman(1860 ?1946)女史は1906(明治39)年7月に、後に第27代アメリカ大統領となったタフト(William Howard Taft)および当時の大統領の息女アリス・ルーズヴェルト等と共に来日している。日本赤十字社の組織、事業などについて熱心に調査し、特に社員制度と平時活動に強い印象を受けた(31)。1912年ワシントンで赤十字国際会議を開催するにあたり、ボールドマン女史は、日本のように大きな赤十字社を有する国は世界中他になく、この総会に、女性を含む代表団の派遣を求めている。当時の慣例では全くの異例のことであったが、女性2人が日本赤十字社の代表団の一員として参加した(32)。ワシントンの国際会議では1日使って、赤十字の平時活動を取り上げている。スイス委員アリス・ファーブル女史は、各国赤十字社が戦争の災害を軽減すべき第一の任務に忠実であるべきことを認めると同時に、将来平時にあっては主として結核病のような病気の撲滅に専ら従事して、衛生の中心となり、もって戦時に尽くすべき事業の練習をすることを求めている。ワシントンポストは5月7日社説で、「戦争より生まれた赤十字は現今においては平時に災害に苦しむ者を救済する世界の最大なる機関となった」と書いたと小澤は報告している(33)。しかし、ワシントンの国際会議ではイギリスとカナダの赤十字代表は赤十字の平時活動に対して反対意見を述べている。アメリカ赤十字代表が平時救護について定義をすると、彼らは、赤十字が平時において活動するのは誤りで、このような事業は他の慈善団体に任せればよいという。小澤は報告書に以下のように書く。「赤十字が平時に於て救護事業に従事するが故に、初めて戦時に活動し得るのみならず、平時に於て手を空うするが如きは、赤十字を死なしむるが如きものにして、寧ろ進で赤十字は一層平時に力を尽くさざる可からずとの議論、多くの人々より出て、殊に瑞西委員ファブル嬢が・・・殊に合衆国、独逸国の如きは平時事業に尤も多く盡瘁するが故、今日に於て、赤十字事業を、戦時のみに限るは大なる誤りなり、云々と述べたるときの如きは、非常なる拍手喝采を以て迎へられ、[イギリスやカナダの代表]顔色なからしめたり。」(34)国際会議閉会式(5月17日)において、ボードマン女史が報告したアメリカ赤十字の平時救護事業について、ICRCのアドール会長は賞賛した。また、この会議で「昭憲皇太后基金」のための日本からの寄付が報告され、さらにナイチンゲール記章規則が定められている。蜷川はこのような状況について、次のように述べる。第1次世界大戦が休戦されるまでの時期は、赤十字の国際会議において、「平時事業を営む可しとの申合せを為したに過ぎずして、其の間に、条約と云うものは存在しなかった。条約としては、ジュネーブ条約即ち戦時を目的とする条約のみが存在して居ったのである。夫故に、各国国民としては、人道上の事業を平時に行うと否とは、唯だ単に徳義的の判断に委せらるるのみであった。」(35)人道研究ジャーナルVol. 4, 2015151