ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015第1次世界大戦頃の健康問題この時期、健康問題では、結核が大問題となっていた。結核は、産業革命に伴い、「世界の工場」とよばれて繁栄したイギリスで大流行している。1830年頃のロンドンでは5人に1人が結核で死亡した。労働者は低廉な賃金と長時間労働、急激な都市への人口流入によるスラム街での居住、生活排水のテムズ川など河川への投棄、その川の水を飲料水とするといった劣悪な生活環境で庶民は暮らしていた。過労と栄養不足により、抵抗力が弱い人々の間に結核菌が襲いかかり、非衛生的な都市環境が拍車をかけたのである。わが国の結核死亡率は第1次世界大戦前の1913年では10万人当たり208人、1918年には248と上昇し、戦後の1920年には224と下がっている。アメリカでは148、150、114であった。この傾向は北欧など一部の国を除いて、同様の傾向を示しており、特にオーストリア、ハンガリー、チェコ・スロバキア、ベルギーなどで顕著である。オーストリアとハンガリーでの1918年の死亡率は403、410となっている。ロシアでは1918年に202であったのが、1920年には397となっている。これらの数字を見ると、第1次世界大戦は、戦場における傷病兵だけの問題でなく、一般の住民の生活にも大きな影響を与えていることを再確認できるであろう(36)。結核に加えて、第1次世界大戦中には、「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザがパンデミックとなった。当時の世界人口は12億人程度と推定されるが、感染者は6億人、死者は最終的には4000万人から5000万人に及んだと考えられる。死者数は、第1次世界大戦の死者を上回っている。これは感染症のみならず戦争、災害などを含め、短期間の間に多くのヒトを死亡させた記録である。アメリカでの流行の第1波は、1918年3月にシカゴ付近であり、アメリカ兵とともに大西洋をわたり、5月から6月にかけてヨーロッパでも流行している。第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まって重症な合併症を起こし、死者が急増した。第3波は1919年春から秋にかけてで、世界的に流行した。兵役につくような若い人々の間でたちまちのうちに広がり、急激に悪化し、死亡するという状況であった。アメリカでは約85万人が死亡したが、これはそれ以降人口が増大したにもかかわらず、破られていない記録である。わが国でも、2500万人が感染し、38万人が死亡という公式発表がある。「超過死亡」概念で推計すると453,152人になると速水融は推定している(37)。日本の当時の人口は5,500万人であった。「矢矧」事件と日赤救護看護婦・天野けさの(38ここで、防護巡洋艦「矢矧」(5,000トン)事件)にかかわる日赤養成看護婦のエピソードを紹介しておきたい。日本赤十字社の山梨県支部から、東京の赤十字看護学校、現在の赤十字看護大学で看護婦養成を受けた天野けさのという人がいた。彼女は、看護婦養成卒業後、結婚し、フィリピンに暮らしていた。夫や子供たちが病気に罹った時も、看護婦として看病し、それほどの費用も使わないですんだ。それにつけても、せっかく赤十字の看護婦として志願しながら、一度も役に立っていないことは誠に申し訳ない。倹約に努め、せめて初志の一端を貫徹するため、看護婦養成資金を赤十字に寄付したいと始終心がけてきたところ、1918(大正7)年秋に100円余りを寄付できた。同年暮れに「矢矧」がマニラに入港してくる。この矢矧はインド洋、オーストラリア、ニュージーランド方面の警戒、輸送船保護にあたり、約2年間の任務を終え、母港の呉に戻る途中、11月9152人道研究ジャーナルVol. 4, 2015