ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015日にシンガポールに寄港した。ここで、内地から交代する「千歳」の到着を待たなければならなかった。すでに11月11日に休戦となったのだが、赤道直下のシンガポールに約3週間碇泊した。「対馬」、「最上」などがインフルエンザに感染した轍を踏まないように、乗組員の上陸、現地住民の乗艦は禁止されていた。11月中旬までに来航するはずの千歳の到着が遅れ、11月30日になってしまう。シンガポールの市街を目の当たりにして長期間艦内に留めておくのは士気に影響すると判断したのか、11月21日と22日に予防薬を服用し、各4時間ずつ、下士卒集会所に限る半舷上陸の許可が出る。24日になると、発熱患者が4名出る。隔離はしたが、28日までに10名に同様の症状が出る。30日に「千歳」との任務交代を終えると、午後4時にマニラに向けて出港。12月1日夕刻には69名の患者。469名が乗り込んでいたとあるが、2日午前には新患50数名。もはや隔離もできず、しかも看護員2名まで罹患。高温高湿で密閉された場所での石炭をくべる作業という重労働の機関部門での休業者は59名となり、艦の運航にも影響が出始める始末になった。5交代制から3交代制にまで労働時間を延長したり、他部門から機関部に人員を回している。幸い、シンガポールから日本に帰る便乗者として「明石」の乗組員10名ほどがいた。彼らはすでにインフルエンザの抗体を持っていたことから、手助けすることができた。1912年に竣工し、巡洋艦として、わが国初のタービン機関を採用し、最大26ノットまで出せるという快足を誇った「矢矧」も、速度を10 .5ノットまで落とし、よろよろと南シナ海をマニラへ向けて進んでいく。4日には1等機関兵が死亡。106名が新たに罹患。マニラ入港は12月5日であった。「矢矧」乗組員には錨を引き、艦を安定させる揚錨機を扱えるものもなく、タラップを降ろすものさえおらず、これらを「明石」の便乗者が行ったと報告されている。11月30日から12月4日までのわずか5日間に、306名の罹患者を出したとあり、約3分の2の乗船員が罹患した勘定となる。入港当日の5日にも、新患96名、6日には64名と報告されている。インフルエンザの猛威を想像することができるだろう。重症患者百数十名はセントポール病院へ移される。開業医の共同病院で、患者を連れてくるものが医師、看護婦を用意する形態の病院であった。病院の設備は十分ではなく、加えるに言語風俗習慣の異なるため看護上に多大の不便を感じていた。領事と日本人会会長らは奔走するが、何分ともインフルエンザのため、思うにまかせない。この時、マニラのピノンド区ソンル街261番地に幼児2人と住まいする天野けさののことが明らかになる。当時夫の天野高承は仕事の関係で、マニラから百数十マイルの地に出張中であったが、2人の幼児を隣家に託し、彼女は看護婦として働くことになった。12月17日になると、回復した兵員で同僚を看護しうる状態になったのであるが、天野けさのは最後まで看護に従事し、天職を全うする所存であると「健気なる御志には皆々感涙」とある。矢矧艦長海軍大佐山口傳一は日本赤十字社社長石黒忠悳に、1月25日付けの書状を送っている。山(39口艦長は、「博愛」という雑誌で「奇特なる天野けさの女史」という石黒の書いた記事)を読んでおり、大いに感心していたところ、「本艦の不幸に際し、女史の天晴の健気なる御志と献身的の御行為に接し深く感服崇拝の念に打たれ申候。茲に艦員一同を代表し感謝の意を表」している(40)。山梨に出張した石黒は、里帰りした天野けさのと偶然出会ったという。この頃は抗生剤もなく、必要なのは看護婦であった。アメリカではアメリカ赤十字が養成した看護婦を求め、各地で高額での引き抜きなどが起こる始末で、ワシントンの本社が看護婦の派遣を人道研究ジャーナルVol. 4, 2015153