ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015調整する必要すらあった(41)。日本赤十字社の「スペイン風邪」救護この「スペイン風邪」に対する日赤の救護は二つに区分できる。第1は陸海軍病院における補助勤務。第2は一般国民に対する救護である。第1の陸海軍病院に対しては、1918(大正7)年12月~1922(大正11)年3月までの4回にわたっている(42)。33都道府県の支部+台湾が救護に参加しており、陸軍病院延61ヵ所、海軍病院3ヵ所に対して、看護師等592名が1,569日にわたって派遣され、取り扱い救護患者数は12,735人であった。この救護にかかった経費は48,213円96銭。この期間中に新潟支部の看護婦山本シツ子、千葉支部の西田きみ子の2名が感染し殉職した。陸軍省から香花料各100円遺族に贈与とある。その他に静岡支部の熊山サメ子(仙台市在住)は、本社から派遣されたのではないが、仙台衛戍病院で陸軍看護婦として勤務中に感染し、死亡した。第2の救護は一般国民に対してで、このため1920(大正9)年1月21日本社通知で、本社病院長および病院を有する支部長に対し、通知している。「流行性感冒の予防及び治療は患者の入院を最も必要とするが、いずれの病院も満室状況で、新患者を収容することができない現状・・・事務室、寄宿舎、その他の建物を融通し、仮病室にし、看護力並びに寝具などの不足は適宜の方法を講じてこれを補い、患者非常収容の準備を整え一般患者入院希望に応じ、予防治療に貢献するは目下の急務なれば、特に配慮されんことを希望する。」とある。病院非設置支部でも、ワクチン無料接種4,176名、マスクの無料供給17,332。診療機関の少ない地方、山間僻地で惨状極める村落などに、医師・看護婦派遣、10支部、救護員172名、416日間(大正7年11月~大正10年3月)、取り扱い患者数32,521名。かかった救護経費は11,428円60銭であった(43)。休戦協定からヴェルサイユ条約調印へ1919年11月11日にフランスのコンピエーニュの森の列車の中で、連合国とドイツ帝国の間で署名された休戦協定を受けて、翌年1月18日に開会されたパリ講和条約会議において、第1次世界大戦における連合国による同盟国の講和条件について討議された。パリ講和会議における各国首脳をパリのフランス外務省前で撮影した有名な写真にはロイド・ジョージ(イギリス)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)が写っている。日本の代表は影も形もない。当時の「5大国」の日本以外の4ヵ国は距離的、歴史的に関係が深いだけでなく、主な戦場となったヨーロッパ戦線で戦い、大戦中から戦略会議を開いていたという関係もあった。彼らからすれば「極東」のはるか遠く、しかもヨーロッパ戦線で戦わなかった日本を、この会議に加える予定は、当初なかったようである。駐イギリス特命全権大使珍田捨巳らの根回しで日本代表も加わることとなった。日本の全権は政権与党である立憲政友会前総裁で元首相、元老で、個人的にもフランスのクレマンソー首相とは親友であったと言われる西園寺公望侯爵および牧野伸顕男爵らが任命され、64人の代表団を送った。会議では日本が「5大国」と称されながら実際に発言力が低かったことで、日本国内で批判を浴びた。クレマンソーは日本代表による訛りの強い演説に、まわりに聞こえるような声で「あのちびは何をいっているのか」といったとも伝えられている(44)。このパリ講和会議において日本の関心事は、2つあった。1つは山東半島問題。第1次世界大戦154人道研究ジャーナルVol. 4, 2015