ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015ハウス大佐の日記によれば、1919年1月8日、大統領の気分はすぐれなかったが、大統領はデヴィソンと、赤十字問題について30分以上懇談した。ハウス大佐からイギリス、フランス、イタリアの首相宛てに大統領名の書簡を書くことが決められた。赤十字組織の業務範囲拡大計画を大統領が「完全に同意した」ことを伝えるためであった。1月10日の大統領の主治医グレイソンは、日記に、デヴィソン、大統領と面会。世界の赤十字を一つの結集した機関(one cohesive body)にする件である。講和条約締結はドイツが違反したジュネーブ条約の改正を含むことになるから、このステップを踏むことが望ましい、という記述がある。1月11日の夕方6時に大統領は委員会の会合から出てきて、ハウス大佐の部屋でデヴィソンと面会とある。この頃、このように頻繁に大統領とデヴィソンは意見を交換する機会を持っていたことが伺える。チャールズ・セイモアが編集した『ハウス大佐の私文書(Intimate Papers of Colonel House)』の1月14日にデヴィソンの平時事業を行うように赤十字事業を拡大する提案をハウス大佐から各国首相へ書簡が出されたとある。「合衆国議会によって制定された赤十字定款でアメリカ赤十字の事業として定められたものは、ジュネーブ条約による事業より幅の広いものであった。平時に国内・国際的な救援を行うことであり、同じように疫病、飢饉、火災、洪水、その他の大きな災渦によってもたらされた苦痛を軽減して、その予防対策をすることまでが、アメリカ赤十字の業務となっている。他の赤十字社もすでにその業務範囲を拡大しているという報告を受けている。」として、ICRCに対して国際会議開催を促すことについて、政府としてもエンドースするよう要請している(51)。2月のカンヌ会議(2月1日~2日)(52)会議は2月1日にカンヌで開かれるということを長岡参事官から聞かされた蜷川は、1月30日夕方、夜行列車で急遽カンヌに向かう。「英米仏伊の代表は集まりつつあった。日本としては甚だ手遅れ、寝台もとらずに急きょ出発・・・同夜毛布の用意もなく終夜寒気のために睡眠しえなかった。病気に罹りはせぬかと心配したほどの苦痛」(53)と日記にある。カンヌには翌日午後4時に到着。駅には数名のアメリカ人が蜷川を迎えていた。その夜、デヴィソンから会見を申し込まれた。フランスとイタリアはアメリカの提案に反対だった。デヴィソンはイギリスはすでにアメリカ案に賛成であるので、日本の賛成を得たいと思い、蜷川と事前に会い、根回しをしたのである。蜷川は持論を展開している。デヴィソンは共和党であり、ウィルソンの味方ではなかった。ウィルソンの国際連盟に賛助するのではなく、赤十字の連盟の設立に努力した、と蜷川は書いている。ベルギーでのアメリカ赤十字の代表との意見交換、ICRCの依頼で赤十字国際評論に寄稿したことなどを報告し、論文を手渡した。会議は翌日、カールトン・ホテルで開かれた。まずデヴィソンから、赤十字は今後、平時活動を推進すべきだと考えており、この考えはウィルソン大統領からも賛成を得ており、公文をもって、列強各国にその旨通知してある。アメリカの案としては、肺結核の予防、小児保健、公共衛生、梅毒や淋病などの花柳病などについて、各社が協力し、研究し、世界人類の幸福を増進したい。その方法について、まず日英仏伊米の5大国赤十字社であらかじめ意見を確定して、ジュネーブのICRCに提案し、なるべく早期に赤十字国際会議を開き、この大事業に着手したいというものであった。ハウス大佐から松井大使宛の書簡では、ジュネーブ条約の改定についても議論するように書いてあるように思えたのだが、デヴィソンは条約改定は今日必ずしも問題とする必要はないと言明して人道研究ジャーナルVol. 4, 2015159