ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015ことも、医師を派遣することも、救援活動のために必要な病院を設置することもできない。このためにも協定がなければならないという。現在でも大規模災害時に問題となる指摘である。1934年東京で開催された赤十字国際会議において、日本にこんな素晴らしいタイピストがいたのかと賞賛された、日本赤十字社の生き字引のような故吉田志げさんから聞いたことであるが、「蜷川さんは実に気さくな方だった」。しかし、日常の気さくさに対して、自説は絶対にまげない、自分が思ったことは、とことん主張する、頑固で、実に粘っこい性格の持ち主ではなかったかと思われる。その後の蜷川の行動講和条約の調印は1919年6月28日に行われた。蜷川は、翌日、日本赤十字社から帰朝を促す電報を受け取った。マルセイユから便船を得て、牧野全権一行と同船して帰国の途についたのは7月17日のことであった。その後、蜷川は日本にあって、青少年赤十字事業の発展に努力する。その一方で、赤十字社連盟の成立の根本がアメリカ赤十字のデヴィソン一人に帰すという内外の風潮に、声を上げている。国内の法学界が国際連盟の規約第25条の挿入について、これを蜷川の発想との観点で捉えないこ(72とに大いに不満を覚え、論文や著作)を提出し、自分のその当時の発言や論文がいかに影響を与えたかについて、執拗に主張している。この傾向は日本語の論文にとどまらず、ジュネーブの出版物などにも、投稿し、ついには彼の影響力があったということを認めさせている。例えば、当時赤十字社連盟が発行していた月刊誌“The World’s Health”の1926年1月号には、「連盟設立の考えの具体的な最初の考えは日本からきたことを忘れてならない」(73)と明記されている。蜷川は、この文書を受けて、「赤十字社連盟の設立の実状」という文章をフランス語、英語、日本語で書いている。これまでこの本当の話を書くことに躊躇した。自分が筆をとれば、自己宣伝が動機になっているように思われるかもしれない。書かなければいけないと思ったのは、これが大戦後の高貴な人道的な事業の史実の問題であり、世界平和と人道のための日本人の思想と事業とに関する日本人の名誉に関わるからである(74)、と言う。当時、平時における赤十字社の活動は、結核予防の広報等のごくわずかな分野に限定されていた。このようなことさえ、全く関わってこなかった社もある。平時に赤十字が活動するという考えは、人類の利益を目的とする団体である赤十字社の目標に過ぎなかった。ましてすべての国を法律で拘束する条約の必要性について、理解している人はほとんどいなかった。蜷川の考えていたことは、平時においても、すべての文明国が法的義務の下に置かれるように、赤十字の平時活動という考えを国際条約で明確にし、その活動実施を確実にしようと考えていたのである(75)。国際連盟規約の規約第25条と同じ言葉が「赤十字社連盟」の規則に採択されたことで、「赤十字社連盟」と「国際連盟」との間に法律的な結びつきが出来上がった。蜷川の主張の実現であった。この視点について彼の見解が受け入れられなかったなら、変則的な非法律的な団体が出来上がっていただろう。当然、世界中の国々から、激しい批判を浴びせられていただろう、と言う。連盟規約第25条は、アメリカ人が起草したあまりにも簡単すぎるものではあるが、事情を実によく理解した幾人かのアメリカ人がいてくれたことは、幸いであった。連盟規約第25条の挿入は「日本人の発案であり、余の主張に成れるものである。」(76)と蜷川は明言している。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015167