ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015国際赤十字・赤新月社連盟75周年記念式典1994年5月5日、国際赤十字・赤新月社連盟は創立75周年記念式典を、パリのホテル・レジーナで行った(77)。この時、アメリカ赤十字を代表して、同社の理事で、国際事業委員会委員長のデボラ・セイマー夫人は、アメリカ赤十字のヘンリー・P.デヴィソンは「親しい同僚でもあり、友人でもある日本赤十字社の蜷川新博士の勧めにより、赤十字社連盟の創設へと導くビジョンを抱いた」とし、1919年12月2日にホワイトハウスでウィルソン大統領に対して、デヴィソンは「日本の同僚の蜷川新博士が最初に提唱したアイデアから、世界中の赤十字社は、平時に活動すること、平和に貢献する事業をすることで、一つになることができると提案した」と、蜷川新の名前を2度も引き合いに出して、彼を讃えている。蜷川新にとって、また日本赤十字社にとって栄誉に思えた瞬間であった。それまでの出版物に蜷川の名前は、5大国赤十字社の一員としては出てきても、これほどの意味を持って語られることは、少なくとも第2次世界大戦後においては、皆無だった。歴史の中にうずもれ、塵をかぶって忘れ去られていたのである。日本赤十字社の社史稿や月刊誌「博愛」などを読み返してみると、確かに彼の業績が書かれている。しかし、戦後の彼の一連の行動が、日本赤十字社の当時の幹部に少なからぬ影響を与えたのであろう。「蜷川新」の名前そのものが意識的に忘れられたように思える。結びにかえて日本赤十字社の情報プラザの一角に鍵のかかった貴重文書保管庫がある。ある日、その片隅に、ひっそりと置かれたボロボロになった革の背表紙のついた3個のボックスを見つけた。その中に、蜷川の手書きのメモや、彼の論文などを見つけたのが、すべての始まりであった。日本赤十字社内の資料を読み込むとともに、デヴィソンやICRC、その他の当時の考え方を知る必要を強く感じた。1次史料を求めて、サンフランシスコ郊外のフーバー文書資料室、ワシントンDC郊外にあるアメリカ国立公文書館、ジュネーブの国際赤十字・赤新月社連盟事務局の文書、ICRCの文書庫、国連欧州本部内の国際連盟文書資料室などを訪ねてきた。まだその史料のすべてに目を通せてはいないが、これまでに判明していることをまとめてみた。注(1)日本赤十字社史続稿下巻、1929(昭和4)年10月、341 ? 438頁参照(2)日本赤十字社は、この徳川公を欧米に派遣するにあたり、随陸軍から蜷川が推薦された。この経緯については、日本赤十字豊田看護大学保管文書参照。また、この時医師3名が同行したが、先方で希望するならば、先方の病院に残留させる方針であったが、各国ともに医師も十分に準備してあったので、日本の医師は帰国。蜷川はこのことを「無益」であったとし、「未曾有の大戦の・・・ヨーロッパの政治、経済、人道を研究したことは、じつに甚大の利益があった」と述懐している。『天皇―誰が日本民族の主人であるか』、長崎出版、新装版、2004(平成16)年10月、232頁。(3)『米、英、佛、伊、白、瑞各国赤十字社慰問報告書』、1919(大正8)年3月、日本赤十字社(4)蜷川新『人道の世界と日本』、1926(大正15)年6月、博愛発行所(なお、国立国会図書館からデジタル版が公開されている。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1230413)(5)蜷川、前掲書、230頁(6)蜷川、前掲書、242頁168人道研究ジャーナルVol. 4, 2015