ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015(7) Intimate Papers of Colonel House, Vol. VI, ed. By Charles Seymour , Vol. VI, ed. by Charles Seymour, p.16(8)アメリカ国立公文書館所蔵アメリカ赤十字文書。蜷川によると思われる訳文は蜷川、前掲書、297~301頁(9)蜷川、前掲書、243頁、また前掲書の「欧州戦場視察及会議出席の諸感想」の6項に「米人デヴィソン氏の人物と追慕」が掲載されている。その中で、「デヴィソン氏は、成功せる実業家であり、・・・理論としては、余の方が常に優れて居り、・・・余とデヴィソン氏とあって、初めて赤十字の新時代は生じ、連盟は成れりと断言して、決して不遜にあらず、誇張にあらざることを、余は何等の私心なく、敢て公言するものである」と書いている。463~464頁。(10)蜷川、前掲書、250頁(11)蜷川、前掲書、257頁(12)蜷川、前掲書、261頁(13)蜷川、前掲書、445頁(14)この温厚なる一人の教授は「ジョン・ヴァン・シェークと云う人なり」と記載している。蜷川、前掲書、68頁および376頁参照(15)蜷川、前掲書、275頁(16)蜷川、前掲書、294頁、66頁、377頁(17)蜷川、前掲書、296頁(18)蜷川、前掲書、296頁、66頁、147頁、455頁(19)蜷川、前掲書、296頁、455-457頁(20) Jean-Claude Favez , The Red Cross and Holocaust, Cambridge University Press, 1999, p.88. ICRCがタイピストとしてではなく、幹部に女性を起用するのは1918年になってからのようであるが、Renee-Marguerite Cramerは、その最初の人であったとのことである。Daniel Palmieri, An institution standing the test of time? A review of 150 years of the history of the International Committee ofthe Red Cross, International Review of the Red Cross, Volume 95 Number 889 Spring 2013, p. 7(21)蜷川、前掲書、314頁(22)蜷川、前掲書、316頁(23)蜷川、前掲書、154頁、317頁、(24)小栗忠順とは小栗上野介のことであるが、1860(安政7)年、34歳にして日米通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米。その後勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建や洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行っている。徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、1868(慶応4)年、罷免されて領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾の師事や水田整備の日々を送っている。同年、薩長軍に逮捕され、翌日烏川のほとりで斬首された。武装し、訓練を行っていたからという説といわゆる徳川埋蔵金の関係からという説がある。小栗の処刑地に立てられた慰霊碑には蜷川新による碑文「偉人小栗上野介罪なくして此処に斬らる」の文字が刻まれている。(25) NHK総合テレビの「ファミリーヒストリー」において、2012(平成24)年11月26日(月)に武蔵(格闘家)? 800年前に遡る武士の家・激動の歴史~というタイトルのもとで、放送した。筆者は取材協力するとともに、出演した。(26)蜷川新『天皇―誰が日本民族の主人であるか』、長崎出版;新装版、2004(平成17)年10月、222頁(27)石井菊次郎は、第1次世界大戦勃発時に駐フランス特命全権大使。1915(大正4)年10月に第2次大隈内閣の外務大臣就任。1918年2月駐米特命全権大使、1920(大正9)年駐仏特命全権大使、国際連盟日本代表。国際連盟の議長や、ジュネーブ海軍軍縮会議の日本全権を勤めた。(28) Henry Dunant, A Memory of Solferino, English version by American Red Cross, 1939, 1959, Reprinted by ICRC, p.117, https://www.icrc.org/eng/assets/files/publications/icrc-002-0361.pdf (木内利三郎訳『ソルフェリーノの思い出』、1969(昭和44)年2月、日赤出版普及会、145頁(29)第2回赤十字国際会議、ベルリン、1869(明治2)年、決議第3; International Red Cross Handbook, 11th ed., Geneve, 1971, p.470なお、2008年発行の同書第14版には掲載されていない。(30)第7回赤十字国際会議、サンクトペテルブルク、1902(明治35)年、決議第12; ibid, p.470(31)アメリカ赤十字の初代総裁のClara Bartonの辞任の後を受けて、Mabel T. Boardmanは、アメリカ赤十字を先導することになったが、総裁には就任しなかった。1905年に議会による定款改正が行われ、赤十字が国際活動に大きな役割を持つにいたった。1906年にはサンフランシスコ地震に見舞われ、時のルーズベルト大統領は救護を実施する機関としてアメリカ赤十字を指名した。(32)日本赤十字社副社長小澤武雄の名で書かれた日記、『第9回萬国赤十字総会参列日記』(1912(大正元)年12月、日本赤十字社非売品所収)に、1911年6月14日付けのボードマンから松方日本赤十字社社長宛の書簡が掲載されている(5頁)。この時、篤志看護婦人会幹事の長崎多恵子と同会幹事の小笠原貞子伯爵夫人が、日本赤十字社の代表団の一員に加わっている。日本赤十字社史続稿上巻、昭和4年10月には、「従来赤十字国際会議ニ婦人委員ヲ派遣スルハ外国ニ在リテハ稀ナルニ非ラサレトモ我邦ニ在リテハ今回ヲ以テ嚆矢トス蓋シ本社事業ノ将来ニ於テ一層婦人ノ努力ニ竢ツモノ多カラントス」(143頁)とある。(33)同上、『第9回萬国赤十字総会参列日記』、1912(大正元)年12月、日本赤十字社非売品所収、52-53頁、68頁参照。また『日本赤十字社副社長小澤男爵講話100題』、博愛発行所、1916(大正5)年3月参照。(34)同上69頁、Proceedings of the 12th International Conference of the Red Cross(仏文、p.108f)(35)蜷川新、前掲『人道の世界と日本』、62頁(36) Godias J. Drolet, World War I and Tuberculosis-A Statistical Summary and Review, American Journal of Public Health, July 1945 p.690(37)速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ~人類とウィルスとの第一次世界大戦』、藤原書店、2006(平成18)年2月、239頁(38)「矢矧」事件については、「戦時日誌」の中に「軍艦矢矧流行性感冒ニ関スル報告」が、1919(大正8)年1月25日付けで、山口艦長名で提出されている。同報告は、速水融、前掲書の巻末資料2として掲載されている。455~469頁及び264~282頁参照。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015169