ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015発災当日のこの危機的な状況の中で、首相官邸の庭に集まった閣僚により臨時閣議が開かれ、内閣に「臨時震災救護事務局」を設置すること、必要物資の確保のための緊急勅令を制定すること、それに戒厳令の施行が提案され、翌2日朝の閣議でこれらが決まった。このように国家の中枢機能が揺らぎかねない非常の時にあっても、巨大地震災害に対する国家としての対応を、辛うじて決めることができたのである。しかしこの時既に、首都警察と消防の本拠であった警視庁や、情報機能の中核であった中央電話局、中央郵便局、医療を担っていた大多数の病院も類焼し、道路、水道施設、電気施設などの被害も甚大で、東京市内及び周辺の交通、通信、消防、医療、物資供給などの機能も麻痺していた。また、中央の行政官庁のみならず、東京府、東京市、周辺市町村などの行政機能も、一時、甚だしく停滞し、わが国は最大の危機に立たされていた。神奈川県でも、横浜市や震源地に近い相模湾沿岸の市町村の被害は、東京と同様に甚大で、津波・土砂災害も加わり、交通、通信、消防、医療などの諸機能も麻痺し、東京を上回る悲惨な状況に陥っていた。このような中、9月3日には「関東戒厳司令部」が発足し、東京府・神奈川県の一部対象地域は、軍によって管掌されることになり、翌3日には対象地域は、両府県の全域になり、さらに4日には、埼玉県・千葉県にも広げられた。当時、日本赤十字社本社も、同様な危機に立たされていた。地震の第一波では、日赤本社建物は無事だったものの、翌日午前2時には、延焼して来た火災により、本社建物は書庫など一部を残し全焼・崩壊してしまった。そのため日赤本社と遠隔地の府県支部との連絡がとれず、情報交換の空白期間があり、9月4日になってようやく、日赤本社の救援要請電報が各府県支部(日赤朝鮮本部・関東州委員部)に届いたようだ。この電報は東京市内からではなく、埼玉県川口町まで職員が徒歩で出かけて行って、ようやく打てたという有様であったという(1)。被災日赤支部の被災者の救援は、発災当日から始まり、千葉、栃木など近県支部からの被災地救援は、翌9月2日から始まった。しかし、大規模災害に対しては、到底十分なものと言えず、大震災被災地の状況は、この世の終わりを思わせる誠に深刻なものであったという。2被災情報の大阪への通報と救援活動の始まりこういう被災地の深刻な状況は、9月1日、横浜港沖の船舶から発信され電信が第1報として土岐嘉平・大阪府知事にもたらされた。次いで翌9月2日には、埼玉県の所沢飛行場を飛び立った陸軍飛行機が、政府高官からの信書を運んで来て、同じく大阪府知事に手渡された。ここから大阪府を中心とする西日本の関東大地震の被災者救援が始まったのである。当時の大阪府は、この現地や政府からの情報を得て9月2日の早朝、「臨時震災救護部」を立ちあげ、直ちに、さらなる地震被害の具体情報の入手、現地の救援要請内容の確認、医療救護班の編成、救援物資などの緊急調達、船舶など輸送手段の手配、避難民の受け入体制の整備などを始めた。また西日本各地の自治体や在外公館からの問い合わせにも応じ、東京、横浜に「大阪府臨時教護部」の出張所を設け、国の「臨時震災救護事務局」と連絡をとりながら、西日本の大震災救援の情報センターとしての役割を行った。さらに9月5日には、大阪府庁に近畿6府県と四国4県の知事が集まり、共同して「関西府県聯合震災救護事務所」を立ち上げ、大震災に立ち向うことにした。この府県聯合の範囲は、その後人道研究ジャーナルVol. 4, 2015173