ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015さらに中国、北陸などの一部の県にも広がった。これらの府県は、東京府の被災地のみならず、後述のように神奈川県の被災地の救援にも重点を置き、両府県に大量のバラックなどの供給を行い、共同で横浜市内に「仮病院の建設・運営」を行ったのである。3当時の大阪府民の状況と関東大震災救援当時の大阪府は、明治期に淀川改修工事、大阪築港工事が行われ、第一次大戦中に大きな発展を遂げた日本第二の都市・大阪市を中心に私鉄などによる郊外の整備も行われ、西日本の中心地としての実態を有し、東京が全国の政治的中心地である「帝都」であるのに対し、大阪は全国の経済的、社会的中心地である「民都」であるとも称せられていた(2)。その意味でも東京を中心にする関東一円が激甚な災害を受け、壊滅的打撃を受けた時点で、当時の大阪の人々の脳裏に真っ先に浮かんだのは、大阪が中心になって、この国難というべき事態に対処しなければならないという自負と決意だったのであろう。関西財界も巨額の支援金を即座に寄付し、大阪府民の多くもその呼びかけに応えたのはそのためである。このような初動援助は、発災後即座に行われたが、1923(大正12)年の暮れまでに主要なものは殆ど終った。大阪人は日頃は節倹に努めていても、出すべき時は金を惜しみなく出す。しかも、名利よりも実利を重んずる大阪の風土もあって、大災害時の初動援助は当然のこととして行われても、それが軌道に乗った後は、被災地の自主・自律に任すという考え方に徹底していたように思う。そのため大阪人自身も、関東大震災の救援活動に関しては、その後の「帝都の復興」と「大大阪の繁栄」の中にあって、往時の記憶が薄れていったのではないか。しかもその後、太平洋戦争末期の東京、横浜、大阪などの大空襲により、多くの諸記録も失われることになり忘却に拍車をかけた。その結果、関東大震災発災当時の救援の事実は、地元の大阪に於いてさえ知られることなく、今日に至った。また当時、日本赤十字社大阪支部も、大阪府と同様に西日本の赤十字支部の結節点として、被災者救護の西日本の中心の役割を果たす立場に自然と立たされていた。これらの活動についても、平成元年に出版された大阪支部創立百年史『赤十字の旗なにわに百年』に僅かに記載されているに過ぎず、記憶が失われている(3)。この「支部創立百年史」は、筆者が大阪府支部在職中に出版されたものであるが、その後偶然、筆者は居住地・奈良の古書店で当時の大阪府の救援記録『関東地方震災救援誌』(4)を入手することができた。この『関東地方震災救援誌』に記載された日赤大阪支部の活動も、主として発災直後のものが多く、それらは当時の大阪府知事(日赤大阪府支部長)の指示により行われた。関西などの当時の他支部の救護活動も同様である。その中で日赤兵庫支部の活動が、やや詳しく記録されているようだ。これらの活動は、後述するように9月10日の日赤本社の電報によって、事後になって追認されたものである。4本稿の記述の目指すもの本稿は、主として当時の大阪府と日本赤十字社の資料などに基づき、関東大震災被災地から西の「遠隔地」にあった地域の、大震災直後の救援活動について、改めて考察を加えるものである。(5具体的には、近畿諸府県並びにその近隣府県(中国、四国、北陸の諸県の一部)を含む地域)で174人道研究ジャーナルVol. 4, 2015