ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015あり、これらの地域の府県・市町村、それに日本赤十字社各府県支部の救援活動の実態を明らかにし、考察の対象とする。また、考察の対象とする救援活動は、専ら「一般被災者のための救援事業」である。従来、この分野の著書や論考は、意外なほど少なかったようだ。先行研究としては、2004年に出された、鈴木淳氏の『関東大震災―消防・医療・ボランテイアから検証する』があり(6)、また、2011年に出された、北原糸子氏の『関東大震災の社会史』(7)がある。これらの著書に共通するのは、それまであまり取り上げられることが少なかった被災者の震災後の行動や、食料や医療、それにボランテイアなどの救援を、被災者が如何に受けたのか、という生活に密着した問題を取り上げていることである。本稿では、人道的団体として1888(明治21)年以来、災害救護に積極的に取り組んできた日本赤十字社が当時、国際的な援助をも得て、どのような救護活動を行ったのか。また、大阪を中心とする府県域を超えた「関西府県聯合」という組織が、一体どのような経緯で、どのような救援活動を行ったのかについても具体的に見て行きたい。また、東京大阪で行われた朝鮮人被災者の救援については、その背景となる事象についても考察したい。5当時の大阪の先進的福祉施策と朝鮮人被災者の救護また、当時の大阪府・大阪市は、ともに民生福祉の面で、官民ともに全国の先端をいく先進的施策を進めていた。これが後述するように、関東大震災の救護活動そのものにも大きな影響を及ぼした。特に、日赤大阪支部の救護班が朝鮮人被災者の救護を偶々担当したこと。その時、日本赤十字社朝鮮本部から来援に駆けつけた救護班と共同で行動ができたこと。さらに在阪の民間団体が予てから朝鮮人に対する救護団体としての体験を重ねていて、被災地から大阪に避難してきた朝鮮人被災者の救援を行うことができたこと等が、当時流言の中にあって困難を極めた在日朝鮮人にとって大きな援助となり、救援を担った当事者にとっても、貴重な教訓になったと思われる。この知られていない実態に迫ることも、本稿の重要な課題であろう。これについて言及した論説は、寡聞にして知らないが、筆者としては、これについてもできるだけ明らかにしたい。二関東大震災発災直後の被災者救護1政府からの要請に基づく大阪府の救援体制の立ち上げ関東大震災で壊滅的な被害にあった神奈川県の警察部長であった森岡二朗は、地震発災当日、倒壊した県庁舎から脱出し近くの横浜港に避難した。この惨状を外部に伝えようとしたが、当時、無線通信、電話などは悉く途絶して手段がない。そこで、横浜桟橋から海に飛び込み、停泊中のランチに泳ぎ着き、そこからコリア丸という船に辿りつき、同船の無線機を使って、ようやく9月1日午後11時30分、内務省本省や数府県の警察部などに電信を送った。それも通信途絶で殆ど通じず、無事電信を受け取ることができ、救援行動に繋げられたのは、結果的には大阪府警察部だけであったようである。その電文は、次のようなものであった(9)。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015175