ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015スルモ目下陸揚不能ナリ右御諒察ノ上、輸送スルトセバ艀曳船人夫等ヲ付属セシメルノ外ナシ其ノ惨状見ルニ忍ビザルモ救護ノ方法ナシさらに大阪では、大阪府内務部社会課長・山崎巌が日本赤十字社大阪支部、済生会大阪支部病院、大阪医科大学などの医療機関に連絡し、緊急医療救護の要請を行った。2大阪府の要請に基づく日赤大阪府支部救護班の活動日赤大阪支部は9月2日、休暇中の大阪支部病院の医師、看護婦などに連絡を付け、直ちに救護班3班を編成し、食料、救護材料、衛生材料、薬品を調達した。その日のうちに先発の第1班として大阪支部病院の医師・原守蔵(外科)、島崎義明(産科)、看護婦長・高藤カツ、同副長・長嶋久子など看護婦12人が選ばれ、現地に急行することになった。午後3時半、大阪商船のシカゴ丸は、これらの人々及び大量の救援物資を載せ、大阪築港から出航した。時あたかも、台風シーズンであり海は荒れ、怒涛は船を揺るがせ、翌日の9月3日の午後9時半、ようやく横浜港内に錨をおろした。直ちに無線電報で到着を神奈川県知事・安河内麻吉に知らせたが、戒厳令下で危険を理由に上陸許可が得られず、空しく一夜を過ごさざるを得なかった。翌朝4日になっても風波は依然収まらずランチを下すことができない。そこでシカゴ丸は、そのまま芝浦港に廻航することになった。その際、大阪支部第1班の救護員は、横浜港内に停泊していた巴里丸に移乗するよう要請された。巴里丸には、既に海上を目指して避難してきた数百人の人々が船内にいて重傷者も多く、救護班は船内での救護を求められ、徹夜で業務に従事したのである。ようやく上陸できたのは9月5日のことであった。横浜市神奈川区青木町の神奈川高等女学校において救護所を開設し、同時に一部の救護員により、移動巡回救護も実施した。赤十字旗を見た人々は、狂喜して救護班を迎えたという(16)。第1班が大阪築港から出港した翌日、大阪支部病院の医師・丸山縁(内科)、同・青山太郎(小児科)、同・安部四郎(外科)、看護婦長・岡田元江ほか看護婦8人などで編成する第2班も、駆逐艦・江風に乗り込み、台風の中を一路東京の芝浦港を目指し、9月4日の午後2時頃、品川沖に到着した。はしけその頃、芝浦埠頭は、艀と人夫不足のため救援品荷揚げも滞り、その影響で班員が上陸できたのは、深夜に近かった。班長の丸山医師や荒瀬哲次書記は、午後11時半、東京府庁に行き、明日の救護の相談をし、班員一同はそこで、束の間の仮眠をとった。9月5日は、早朝より準備を行い、一面焼け野原になった両国橋詰小公園にテントを張り救護所を開設したものの、ここでは水道管が破裂していて少量の水を得るのも容易ではなかった。それでも翌日にわたって、殺到する大勢の重傷者に献身的な救護を行った。9月7日からは、場所を新宿市電終点の大林組の荷物自動車置き場に救護所を開設した。ここでも飲料水、食料が乏しかったが、一致協力して必死に救護を行った(17)。さらに9月5日午後6時、支部病院医師・中谷正範(小児科)、同・杉本政直(内科)、同・大石孝次郎(産科)、看護婦長・井上なつゑほか看護婦人9人などで編成される第3班も、特務艦神威に乗船して東京に向かった。この時も9月6日早朝に着きながら、第2班と同様の理由で上陸できたのは午後8時であったという。そこで露営し翌朝、中谷班長と栗田光二書記は、日赤本社を訪ね、初めて本社が全焼し、渋谷の本社病院の一室に本社仮事務所があるのを知り、さらにここを訪ねた。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015177