ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015本社では、同班に横浜での救護活動を指示されたが、移動手段もないため、協議した結果、明治神宮外苑に建設中の競技場観覧席下が安全ということで、9月8日には、そこのコンクリート造りの観覧席下の一室に診療所を開くことになった。この観覧席下のスペースには、既に多くの被災者が避難をしてきており傷病者も多かったので、直ちに救護活動を始めた。一方、周辺の被災者に対する巡回診療も行った(18)。以上が大阪府からの要請により横浜、東京の被災地に赴いた日本赤十字社大阪支部病院の救護班の初期活動の概要である。3日本赤十字社本社の被災と東京支部及び東京周辺支部の救援活動関東大震災の激震が最初に襲った際も、大正元年に新築された日本赤十字社本社の建物は、鉄骨煉瓦作りのため無事であった。それを見て安堵した近辺の人々は、負傷者などを援けながら続々と本社構内に避難して来た。本社では構内や表門前に数張のテントを建て、避難者の収容に備えるとともに、負傷者に対し応急救護を行った。やがて夜になると避難者の数は、いっそう増えてきて持ち込んだ家財道具が構内に山と積まれるようになった。そこに赤坂方面から猛火が延焼してきて烈風も起こり、避難者の荷物に燃え移り、遂に本社の建物自体も燃え上がった。9月2日午前2時、本館、倉庫などが炎上し、残されたのは、文書書庫と薪炭庫だけだったという。また、日赤本社病院の煉瓦作りの本館も、第一震で倒壊し、手術室なども崩壊したが、幸い外来診療室、病棟などは無事であり、ここの看護婦集会室を本社の仮事務所にした。日赤本社は、この仮事務所で9月6日に理事会を、同9日に常議会を開き「臨時震災救護規則」を制定し、本社に「臨時震災救護部」を設置し、日露戦争の救護費用に匹敵する500万円の震災救護予算を計上した。さらに9月10日、仮事務所を麹町区有楽町2丁目の帝国農会ビルに移し、漸く全国的に統一された救護活動が行われるようになり、全国の支部、病院に具体的な指令を出すことができるようになった。一方、日赤東京支部は、大震災発災直後の午後2時に、医師5人を中心とする救護所を東京府庁前に天幕を張り立ち上げた。日赤本社はここにも本社病院の医師3人と看護婦6人を派遣した。また、午後3時には、東京支部はさらに皇居前広場にも夏季林間学校用の天幕を設置し、救護所を開設した。本社病院の応援医師らも、3日間不眠不休で救護にあたったという(19)。また、本社病院でも医師、看護婦が率先して出動した。当時、若手として活躍した神崎三益医員(後の秋田赤十字病院院長)の記録によると、峯医員は東京市役所から30台のバスを借り受け、曽我医員は陸軍から大量のガソリンを入手するなど積極的に動き(20)、9月4日からは、患者収容班を編成し、出動64回に及び500余人の被災者を救助したという。その後も、各地から集まる患者の「非常収容」を行い、既設の建物はもちろん急増の仮病舎にも患者が溢れ、職員はすべて不眠不休で救護に当たったという。その時の患者数は、5万5千人近くに及んだという(21)。また、9月2日午前5時には、千葉支部及び千葉医科大学連合救護班が府下亀戸町に出動し、亀戸第一小学校に救護所を設けた。さらに同日午後5時半には、栃木支部の救護班も府下日暮里町に入り第五小学校に救護所を設けた。さらに翌9月3日には、群馬支部、福島支部の救護班が上野公園に、千葉支部第2班が本所区に、宮城支部が巣鴨警察署に、それぞれ救護所を設けた。178人道研究ジャーナルVol. 4, 2015