ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015上野公園は当時、東京市内最大の避難場所であった。当初の患者は、火傷、打撲、刺傷、裂傷といった外傷、それに急性結膜炎や眼内異物が多かったという(22)。また、千葉県、静岡県、山梨県、などの各支部は千葉県の館山付近、静岡県の伊東・熱海、山梨県の鰍沢町など、支部管内に発生した震災被災者のために各地に救護所を設け、救護班を派遣した。9月4日には、埼玉、長野、岩手などの救護班も東京市に入った。日赤本社が地方の遠隔地支部に救援を指示する電報を打ったのは、まさにこの日であった。この本社の指示を受けて大阪支部第2班が、前述のように9月5日、両国橋際に入り、6日には、京都支部第1班、福井支部第1班が滝野川町、本所相川町に入った。さらに、8日には、大阪支部第3班が明治神宮外苑に入り、石川支部第2班が浅草区新谷町に入り、9日には徳島支部が浅草公園に入り、それぞれ救護所を開設し、救護活動を開始した。さらに東京より被害が甚だしかった神奈川県では、横浜市の日赤支部建物も本社と同様猛火に包まれて炎上した。また、横須賀、鎌倉、腰越、平塚、小田原など震源地に近い相模湾沿岸の被害は、津波や土砂災害などもあって、被害はさらに甚大であった。この頃、横浜市長から大阪府知事宛てに「本市危急ニ瀕ス、食料品、水、衛生材料ノ急送ヲ乞フ」との電報も打たれ、大阪府は兵庫県などと連絡し、神奈川県の救護に力を入れることにした(23)。そこで兵庫支部は、医員2人、看護婦20人からなる救護班を編成し、9月4日、神戸港から筥崎丸で出航し、台風の中をようやく脱出し、9月7日に横浜港に着いた。ところが震源地に近い沿岸部の片浦村根府川、米神などが津波に襲われ、同時に土砂災害で全村埋没し、近くの小田原町も海陸の交通機関を奪われ、しかも全町の大半が炎上し被害甚大という情報を得て、翌8日、真鶴港に上陸し救護を行い、さらに小田原町に辿り着き、救護所を設け救護活動を行った。またそれに先立ち、奈良支部の救護班は、9月5日に横浜第一中学校に救護所を開設し年末までの長い救護を開始した。9月6日には、栃木支部の第2救護班が、これまた被害甚大の鎌倉に入り、広島支部第2、第3班救護班がそれに続いた。9月7日には、山口支部救護班が横浜市根岸に、岡山支部の第1班、2班救護班が同市新山下町に入った。8日には石川支部第1班救護班が横浜公園に、福井支部第3班救護班が同市野毛山に入った。9日には京都支部の第2班救護班、愛媛支部第3班救護班が同市中村町に入った。このようにして横浜市内にも次々と救護所が設けられた。この間、9月6日には前述のように、本社の仮事務所で日赤本社理事会が開かれ、大震災救護の協議がされ、次いで9日には常議会が開かれ「臨時震災救護部」が作られ、「臨時救護予算」も決まった。その後、9月10日には仮事務所を帝国農会ビルに移し、そこから日赤の全支部及び朝鮮本部、関東州委員部に対し「震災救護のため、貴部から臨時救護班一班を派遣せられたし、ただし現在派遣の班を代用するものは、その旨返電ありたし」との電報を発したのである(24)。週明けの9月13日頃から、「臨時震災救護部」は、日本赤十字社の救護本部としての体制を、完全に整えることができた。初代佐野常民社長から50年近くにわたって日赤に勤務し、克明に日記をつけていた社長秘書の河村盛一は、大正12年9月13日の日記に次のように記している(25)。現在の救護班は、東京方面に31か所、神奈川方面に10か所を設け、9月1日より10日までに診療したる罹災患者人数5万人、本社病院に収容せる患者約700人、既に救護班を派遣し来たれ人道研究ジャーナルVol. 4, 2015179