ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015る支部は47に達する。4本社の指示に基づく日赤大阪支部救護班の活動9月11日、大阪支部は、日赤本社の臨時震災救護部からの指示を受けて、9月13日、救護班第4班を陸路により派遣した。吉田敦医員、片山萬壽恵婦長ほか看護婦19人により編成された本班は、明治神宮外苑で活動していた第3班の交代要員として派遣されたのである。この第4班は、9月15日、日赤本社病院に到着した時、その指示により第3班が勤務した神宮外苑の救護所に勤務することになった。この救護所は、その際、日本赤十字社第22救護所(新宿駅構内)の「大阪出張所」と名称を変えることになった。ここでは、勤務時間を午前7時より午後10時までと定め、その間午前と夜間は、救護所で診療を行い、午後は巡回診療に出かけるという勤務形態に、ようやくなったのである。この「大阪出張所」勤務の救護班は、しばしば青山の朝鮮人バラックに赴き、必要に応じて、特に看護婦を派遣して、患者の看護をしたので、大いに感謝されたと記録にある(26)。その後本社の指示で、この大阪の第4班も班を分けることになり、一部は東京府庁前の救護所、宮城前の救護所の勤務につき、吉田医員、片山婦長ほか9人の看護婦が、明治神宮外苑の救護所に残り、診療や巡回診療を行った。9月26日になって、この第4班の交代要員が大阪を出発し、北陸線廻りで直江津に出て、そこからまた信越線で東京府下の日暮里駅に出るという経路で、9月28日、明治神宮外苑に来て、翌9月29日、交代を行った。第5班の班長は、尾立源次郎医員、看護婦長・樫本ノブであった。神宮外苑では当時、多くのバラックが建造中で、逐次避難者を収容していた。ここには消化器患者、小児患者も多かったようだ。秋を迎え寒さも覚えるようになって来たので、10月4日、第5班は救護所を建設されたばかりのバラック内に移し、宿舎もその一隅に設け、救護活動を続けた(27)。しかしここでは、赤痢やチブスの発生もあったので、日赤大阪支部と連絡をとり、10月26日からは、第6班として医師・長谷川信男(耳鼻咽喉科)、内堀親忠(内科)、山口貢(小児科)、田端俊一(小児科)と多数の看護婦、看護生徒を迎えて診療体制を整えた。この時期、神宮外苑のバラックの避難者は1万人を超え、消化器患者、有熱患者なども多数あったが、幸いにして伝染病は大流行を見ることなく収まった。この後、日赤本社の指示により本救護所は、11月11日、閉鎖撤廃され、医師、看護師等は、本社病院勤務に転じることになり、避難者の涙の見送りを受けたという。三朝鮮人被災者の救護1朝鮮人被災者の状況関東大震災発災の当日の9月1日午後、東京、横浜で「朝鮮人暴動」の流言が起こった。それは忽ち東京府下、周辺県などにも及び、多くの人々がそれを信じこみ、朝鮮人が襲われ犠牲者も多く出た。翌日には、既述のように戒厳令が布かれ、軍隊が動員され、大勢の朝鮮人が「保護・検束」され、千葉県習志野の騎兵連隊の廠舎、府下目黒町の競馬場跡、各地の警察署、栃木県那須の金丸原などに収容された。その中には震災による負傷者や暴行などによる負傷者も多かったという。180人道研究ジャーナルVol. 4, 2015