ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 20152日本赤十字社朝鮮本部の救護班と大阪支部救護班日赤朝鮮本部の救護班は、9月4日、日赤本社からの指示があった日に京城(ソウル)を出発し、8日に東京に着き、日暮里町で震災被災者救護に参加したが、9月18日以降は、専ら巡回診療班として主として朝鮮人を対象に救護を行った(28)。そこで出会ったのが、これらの負傷者であった。この救護班は、赤痢菌発見者として有名な志賀潔博士が、朝鮮本部副総長として引率して来たが、成田夫介医員が班長として藤本順医員、鈴木モヨ婦長など5人の看護婦が救護に当たっていた(29)。姜徳相の『関東大震災』には、次のような記述がある。「日赤朝鮮支部の救護活動によれば、目黒収容所及び各警察収容者中、加療人員842人、各地方巡回診療者は1,323に達している」(30)このような状況の中で、朝鮮総督府は、9月21日、「青山外苑朝鮮人収容所」を設けた。日赤本社がアメリカから寄贈された4張の大テントを、朝鮮人避難者の宿舎並びに病院として、ここに用いたものである(31)。朝鮮人に関する流言蜚語が飛び交う中で、総督府は安全を求めてここに朝鮮の人々を移集させたのであろう。日赤大阪支部救護班が訪れた朝鮮人バラックというのは、この「青山外苑朝鮮人収容所」構内にあった宿舎であったろう。日赤朝鮮本部の救護班が、既に9月21日から救護活動を行っていたので、大阪の3つの救護班は、朝鮮本部のメンバーから色々教えられることも多かったと思われる。また、日赤朝鮮本部は、この朝鮮人収容所に移った際に、救護員を増派することにし、医員3人、看護婦10人を新たに派遣したが、そのメンバーの中には、沈熙澤、金俊炯という2名の朝鮮名の医員も含まれていた(32)。その後も、医員2人、看護婦4人が「大阪出張所」から習志野方面に分遣されたともいう(33)。習志野の騎兵連隊の敷地内には大勢の朝鮮人がまだ残っていたのであろう。いづれにしても、この現場に赤十字の記章を付けた朝鮮語を解する医師が来たということで、被災朝鮮人は、さぞかし安心をしたことであろう。また、日赤朝鮮本部の救護班と共同して救護に当たった大阪支部救護班にとっても貴重な体験であったろう。当時、朝鮮半島から東京、大阪、福岡などへの都市への朝鮮人の流入が多く、大正11(1922)年には、6万人に達していた(34)。特に大阪はその多くを受け入れ、天満橋6丁目、今宮、九条、鶴橋などには、4万人近くの朝鮮人が住んでいた。これらの地域は、大阪支部病院に近接するので、来院する人々も多かったのではないか。当時、大阪支部病院院長・前田松苗、同主事目崎武富は、患者を「病客」と呼ぶよう職員に指示し、無料診療を受ける人々を「無料病客」と呼んでいた(35)。そういう雰囲気で育った大阪支部病院の医療関係者にとって、関東大震災の救護は、民族同士の理解を進める良い機会でもあったろう。四大阪市、神戸市における震災避難者の受け入れ震災直後の9月4日、大阪府の佐野利平理事官が「臨時震災救護事務局」を訪れた際、内務次官や社会局長官は、佐野が提案した「希望する避難者を関西に移送する」という施策は、「時宜にかなった救援」ということで賛意を表したそうである(36)。そこで9月6日、さっそく日本郵船のロンドン丸は、830人の希望避難者を載せ、大阪築港に到着した。また鉄道による大阪への避難者も、梅田、湊町、天王寺などの駅に相次いで到着した。大阪府は、大阪市と協議し、海路により到着する避難者は大阪市に委ね、鉄道で到着する避難者人道研究ジャーナルVol. 4, 2015181