ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015は大阪府が救護することにし、府庁内に「避難者救護部」を設けた(37)。さらに大阪府では、到着駅ごとに出張所を設け、元・梅田高等女学校校舎を改装し、宿舎にあてることにした。しかし、避難者が増えるにつれて、ここでは収容しきれなくなり、篤志家の邸宅、社会福祉施設、寺院などを収容所に充て、傷病者は日赤支部病院などに入院せしめ治療を行った。9月6日以来、大阪の避難者の数は、毎日平均2千数百人に及んだという(38)。当時、大阪が全国に先駆けて発足したばかりの方面委員も動員され、収容避難者の就職、居住、帰宅などの相談を行った。方面委員は、大正7(1918)年、当時の大阪府知事・林市蔵のもとで、小河滋次郎が発足させた制度で、当時、大阪市内には335方面に委員475人が配置され、しかも各「方面」ごとに「方面書記」という専任職員も置かれていたそうだ(39)。しかも、これらの経費は公費だけでなく、9月5日から行われた震災義捐金が充てられることも多かった。この義捐金は、住友家の250万円を筆頭に、9月11日までに510万円に達したので、避難者の救護と慰藉に一部を充て、後は欠乏が甚だしい日用品、衛生材料、医療材料に充てることにした(40)。また、東京府市と協議し、主として東京市の被災小学校の机、椅子などに充てた。また大阪市も、市立中央職業紹介所を初め、市内の12か所の市立職業紹介所で被災者の職業の紹介に努め、一時は就職率が8割に近いということもあったという。また、公設市場の担当吏員を東京市に派遣し、日用品がスムーズに流通するよう、大阪市が代金の一時立替払いをする制度を導入した(41)。さらに政府と協議し、義捐金を被災小学校の学用品、教授用具にも充てた(42)。また、日赤兵庫支部が9月4日、筥崎丸で横浜に救護班を送るため神戸港を出港後間もなく、紀州沖航行の汽船から無線で、横浜市からの避難患者を多数受け入れて欲しいとの打診があった。兵庫支部では、神戸市諏訪山に臨時救護所を設置することとし、医員3人、看護婦19人、書記2人による救護班を編成し、即日開設の用意をし、受け入れをした。重傷者は兵庫県立病院に送り、その他の患者は、ここで治療したが、その数は延べ2,785人に及んだという(43)。ところで東京などの他所からの避難者の中にも朝鮮人が多かった。これらの人々は、大阪府下東成郡生野村林寺にあった「大阪汎愛扶植会」という団体によって保護・救済がされた。「大阪汎愛扶植会」は、明治29(1896)年に加島敏郎によって設立された団体で、朝鮮人の孤児の救済を目指し、岡山孤児院の石井十次と同じ、高い志をもって作られた団体であった(44)。この団体は、大正9(1920)年には、朝鮮人の無料宿泊所、施療施薬、職業紹介の事業も行っていた(45)。キリスト教系の人道主義を掲げ、長年の実績を掲げていたので、朝鮮人避難者にとってたいへん安心できるものであったろう。その収容中は、府も常時、警察官を派遣し、危害を防ぎ、身体財産の保護に努めたという。最終的には11人に無銭乗船車券を与えて故郷に返し、12人に就職を斡旋したという(46)。五関西府県聯合の救援1関西府県聯合震災救護事務所の設置大地震発災直後の9月5日午前10時、大阪府庁に大阪、京都、兵庫、滋賀、奈良、和歌山、高知、愛媛、徳島、香川の2府8県の地方長官(知事)が急遽集まり、震災地救援に関する「応急方法」182人道研究ジャーナルVol. 4, 2015