ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015を審議した。その結果、国の「臨時救済事務局」の「出張所」を大阪に設置し、そこに国の係員を派遣するよう政府に申請することとし、それまでは救援事務の整理統一を図り、「関西府県聯合震災救護事務所」を大阪に創ることを申し合わせた。政府は翌日、内務次官から「通信機関が暫次回復して来たので、出張所の大阪設置は不要である」旨の回答があり、近畿、四国諸府県の自主的組織である「関西府県聯合震災救護事務所」の設置が決まった。また、会議終了後、北陸、中国、四国の県知事にも、その趣旨を伝え加入を働きかけ、結局は、近畿の外は、石川、岡山、鳥取、島根、徳島、愛媛、高知の諸県がこれに参加することになった。2バラックの建設寄付とその輸送関西府県聯合の最初の仕事は、初めは食料、衣類などの日用品の確保・輸送であったが、これが充足されるに連れ、残ったのは、住宅の確保と医療の充実の問題であった。そこで府県聯合としては、先ず東京に300棟、横浜に200棟のバラックを建設寄付する計画を推進することにした。これらバラックは、大阪の建設会社・大林組により作られ、東京府、神奈川県の災害現場に、大阪港から東京、横浜の港に船で送り出されたのである。これらバラックは、1棟が木造建て平屋の建坪60坪。それに5坪の便所が付いていたそうであるから、後に被災各地に建てられたものより、だいぶ大きかったらしい。用材は再用を考えて太材を選び、罹災地で直ちに組み立てができるよう、大阪で加工がされていた。今でいう「プレハブ」であったようだ(47)。これらのバラックは、大阪市鶴町の2万余坪の広大な敷地の工作場で,2千数百人の作業員が、昼夜兼行の突貫作業で作られ、9月25日には完成した。それに先立ち9月18日からは、加工材料を既に横浜行きのアンデス丸、東京行の佐賀丸などに積み込んでおり、9月24日にはアンデス丸に職人308人、艀10艘(荷役人夫80人とも)及び貨物自動車1台が積みこまれ、現地へ送られていったという(48)。東京事務所駐在の当時の大阪府内務部社会課長・山崎巌(終戦時の内務大臣)の報告によると、「事務局ヘ寄贈ノバラックハ、頗ル好評ヲ博シ居リ、・・・使用目的ハ、三河島細民住宅12棟、罹災者収容所155棟、各種社会事業45棟、其他ニ有之公共団体ノ分トシテハ、救世軍の託児労働宿泊、罹災患者収容所、セツルメントワーク10棟、キリスト青年会罹災収容所5棟、本願寺ノ盲人収容所・託児所3棟、」などと用途が具体的に明らかにされている。はしけ3大阪府外一府六県聯合横浜仮病院の建設関西府県聯合の行った事業の最大のものは、横浜市に建設した「仮病院」であろう。当時の平賀周・大阪府内務部長が、横浜市は東京市と比べて、地震被害の程度は、いっそう激しく、医療機関の欠乏が最大の急務であると考えたのがことの発端である。そこで関西府県聯合の「府県出張員協議会」に震災傷病者を収容する「仮病院」の建設を諮ったところ、バラック建設寄付と同様、多くの府県の賛成を得た。賛成県は近畿6県のほか、石川と愛媛の2県であったという。そこでさっそく関西府県聯合では、安河内麻吉・神奈川県知事と交渉し、横浜に派遣中の兵庫県理事官・松岡英介と東京の佐野理事官が担当し、横浜市中村町の衛生試験場跡を仮病院敷地と定めた。9月10日には、早くも大林組と病院建設の請負契約を締結した。人道研究ジャーナルVol. 4, 2015183