ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015また、大阪支部病院院長・前田松苗に医療機械、器具、衛生材料などの調達を依頼し、仮病院の院長として大阪支部病院の澤村栄美外科医長を、副院長として同病院の石川芳治内科医員を指名した。9月24日までに、本館全部の上棟も終わり、調達の諸準備も済み、派遣医員6人、薬剤師3人、看護婦20名、木村事務長以下事務員10人、それに傭人を合わせ70人も決まり、9月24日には、運送船・平明丸に500トンの荷物を載せ、全員が大阪港から横浜港に向かったという。10月1日、仮開院となり、21人の患者を診察し、さっそく2人の入院を許可したという。まさに戦場における「兵站病院」の建設を思わせるような猛スピードでことは進んだ。ところが思わぬ伏兵が現場で出てきた。衛生試験場跡地であるので、よもやと思ったことだが、地震により水脈が変わったのか、掘削した井戸は水質が悪く、病院が欲するような浄水が井戸から得られなかった。それでも地元の期待に応えるために、10月5日に開院し大勢の患者を迎えた。10月21日までに外来患者は1万人を超え、腸チブスなどの伝染病患者も入院してきたが、それらの人々は、3棟の伝染病棟に収容した。10月29日には、改めて掘削した大井戸も完成し、水道管の引き込み工事もされ、水問題はどうにか解決された。このような中で医師や看護婦などに過労のため病臥する人も続出した。医師、薬剤師、看護婦は、聯合府県から派遣されていたので、頻繁に交代要員を呼ぶこともあった。その後、日本赤十字社では、11月1日、横浜市根岸に臨時病院を開設し、さらに11月5日からは東神奈川臨時病院を開設した。横浜仮病院は、12月になって外来患者の累計は3万人を超えたが、外科患者の方がやや多かったという。そこで当初予定の3月も過ぎたので、主要建物13棟,諸設備、薬品、医療器具、機械、衛生材料など、15万円に及ぶ、すべてのものを地元神奈川県に寄贈して経営も委ねることにし、12月20日に大勢の患者などに、別れを惜しまれながら派遣職員一同は関西に引き上げた。六おわりに以上、述べたように当時、大阪を中心とする近畿、中国、四国、北陸にまたがる諸府県は、それぞれの府県の日赤支部と緊密な連絡を取りながら、関東大震災の被災者救護に参加した。また、近畿並びに周辺の諸府県の日赤支部は、赤十字の重大な使命を自覚し、日赤本社とでき得る限りの相互連絡を取り、支部同士も励まし合いながらこの緊急事態に対処した。『関東地方震災救援誌』には、佐野理事官の9月7日の報告に「各官衙ノ交渉ニ従事スルニ徒歩スルノ外ナク自動車ノ発送ヲ乞フ」とか「出張員ノ炊事用具一切(鍋、コンロ,茶わんなど)及夜間作業等ニ要スル提灯、蝋燭、小使一人、至急送付方ヲ乞フ」といった緊急時のための準備不足とか、「目的地ニ寄港セザル船舶ニ貨物搭載発送セラルル」とか当時の救護の混乱も、余さず伝えている(49)。また、当時の日本赤十字社の機関誌『博愛』大正13年2月号には、日赤本社救護課長・高橋高の「震災救護の跡を顧みて」という一文があり、救護材料の不足、救護班編成体制の不備など、数々の反省も書かれている。これらの失敗を記録し、失敗から学ぼうとする姿勢が貫かれているのである。わが国では近代以降、国の中枢機能を揺るがすような大災害の経験は、関東大震災を措いて今まで無かったと言えよう。しかしこの場合でも、被災者救援の司令塔は、中央政府でも、日本赤十184人道研究ジャーナルVol. 4, 2015