ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
- ページ
- 190/286
このページは The Journal of Humanitarian Studies の電子ブックに掲載されている190ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは The Journal of Humanitarian Studies の電子ブックに掲載されている190ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 20151945年8月9日―長崎被爆直後の赤十字救護看護婦の救護活動吉川龍子1はじめに被爆直後の長崎市第二次世界大戦中の1945年8月9日午前11時2分、長崎市浦上に原子爆弾が投下され、8月6日の広島市に次いで長崎市は世界で二番目の被爆都市となった。広島市にはウラン爆弾が投下されたが、長崎市にはさらに殺傷力の強いプルトニウム爆弾が投下された。爆心地は市内北部の工場地帯であり、東西の丘陵地帯に挟まれた浦上川流域の谷間状の地形であったため、強烈な熱線と爆風が襲いかかり、一瞬にして市街地は破壊された。被爆と直後の火災のため、数万人の市民が命を失い、生き残った人々も身体に多大の損傷を受けて、さながら生き地獄の様相を呈していた。爆心地に近い長崎医科大学は施設が壊滅状態となり、医療関係者と医学生の多数が犠牲となった。市内の病院や医院も被害を受けて、重度の火傷や怪我で苦しむ市民の救護に支障を来たした。日本赤十字社長崎支部2の診療所(新橋町)は爆心地から3kmの位置にあったが、爆風による被害を受けて内部の備品が散乱した。診療所のため医師も看護婦も少人数であったが、被爆直後から殺到した負傷者のために、ただちに救護を開始した。広島市では広島赤十字病院と広島陸軍病院(第一・第二)で勤務中の赤十字救護看護婦が多数犠牲となったが、長崎市に派遣されていた日本赤十字社救護班はなかったので、被爆時の犠牲者は出ていない。被爆の数時間後には、近接地の軍病院から救護班が派遣され、赤十字救護看護婦も救護隊員として原子野となった長崎市内に入り、応急の救護活動を開始した。また近隣の各地へ搬送された被爆者の救護にも赤十字救護看護婦が多数加わり、寝食を忘れて懸命の救護活動に従事した。戦後35年を経た1980(昭和55)年に刊行された『閃光の影で原爆被爆者救護赤十字看護婦の手記』(日本赤十字社長崎県支部刊行)は、一般に知られていない当時の生々しい救護記録が記されている。また各県支部の記念誌にも、長崎市内と近接地に派遣された救護班の記録が見られる。これらの資料をもとにして、長崎被爆者救護に活動した赤十字救護看護婦の実態を明らかにしたいと考える。Ⅰ長崎支部の救護事業の歴史日本赤十字社と長崎との関係は、138年前の1877(明治10)年の西南戦争の時に始まった。同年5月に戦傷者を敵味方の別なく救護するために創設された博愛社は、まず熊本と長崎の軍団病院へ医員と看護人を派遣して、救護活動を開始した。長崎では8月から、出島内の第11副舎が博愛社の担当となり、さらに同副舎は市内の福済寺に移転した。この博愛社担当の救護所となった1元日本赤十字看護大学図書館2日本赤十字社支部名・看護職の名称・教育施設名などは当時のままとした。188人道研究ジャーナルVol. 4, 2015