ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015福済寺は、現在の長崎駅の近くにあり、原子爆弾による被災のため伽藍は全焼した。現在では原爆犠牲者慰霊のための大観音像(長崎観音)が本堂の上に立っている。西南戦争の際の看護人は男性であったが、1887(明治20)年に博愛社が日本赤十字社と改称して間もない1890(明治23)年に東京の日本赤十字社病院で赤十字看護婦の養成を開始した。女性救護員の必要性は既に博愛社の時から指摘されていて、西欧諸国におけるその養成法や救護活動の実例が報告されていた。1893(明治26)年2月に広島支部が看護婦養成を開始したのを契機として、各県の支部でも地元の医学校や医院に委託しての看護婦養成を開始した。長崎支部でも同年8月に養成に着手したという記録が見えるが、養成期間3ヵ月にすぎなかった(1)。1896(明治29)年には「日本赤十字社地方部看護婦養成規則」が制定され、看護婦養成所が各支部に設置された。『日本赤十字社史稿』に見える「支部看護婦生徒年度別卒業人員表」によれば、長崎支部は1898(明治31)年から1904(明治37)年の間に62人が卒業している(2)。同時期には男性看護人の養成も実施され、24人が卒業した(3)。1917(大正6)年12月の「救護員生徒養成配属区分及派遣ニ関スル規程」により、長崎支部は日本赤十字社大阪支部病院への養成委託が定まり、それは昭和期にも続いた(4)。この間には戦時救護事業が始まり、日清戦争(1894~95年)では長崎支部の看護婦が広島陸軍予備病院に8人、東京陸軍予備病院第三分院に12人、福岡陸軍予備病院に2人派遣された(5)。次いで北清事変(1900年)では佐世保海軍病院に看護婦長と看護婦10人、日露戦争(1904~05年)では看護婦長4人と看護婦52人が軍病院に派遣された(6)。第一次世界大戦(1914~18年)中には、佐世保海軍病院へ派遣された救護看護婦がイギリス軍人の看護に従事し、また日本赤十字社からイギリスへ派遣された救護班の一人に、長崎支部の救護看護婦が加わるなど、国際救護の例が記録されている(7)。災害救護事業は地元の支部の担当であり、明治期の長崎支部の主なものでは1906(明治39)年の高島炭坑爆発事故がある。事故直後に長崎市内居住の看護婦が臨時召集され、同日中に事故現場に到着したが、入坑中の作業員307人は全員が全身火傷または窒息のために落命していた。救護班の看護婦たちは炭坑付属病院に運ばれた遺体を洗浄し、全身繃帯を施すという過酷な作業や巻軸繃帯の製造に従事した(8)。なお同年10月におきた五島列島の南の男女群島近海での多数の難破船の負傷者救護にも、看護婦が派遣された。大正期には関東大震災(1923年)に際し、派遣された看護婦たちが東京市と横浜市の救護所で2カ月間にわたり負傷者救護に活動した(9)。また1918(大正7)年から各地に流行性感冒(スペイン感冒)が蔓延し、それが軍隊内部にまで及んだ際には救護班が派遣され、長崎支部からも看護婦が佐世保海軍病院へ赴いた(10)。Ⅱ日中戦争以後の長崎支部救護班派遣1937(昭和12)年7月の日中戦争勃発以来、1945(昭和20)年8月の太平洋戦争終結までの長崎支部の救護班派遣は15班、救護員総数は371人(うち看護婦長19人、看護婦333人)と記録されている(11)。その班名と派遣先は次の通りである。第016班1937 .8.26佐世保海軍病院第017班〃8.26同上人道研究ジャーナルVol. 4, 2015189