ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015第107班〃12.20広島陸軍病院―佐世保海軍病院臨020班1939.3.20中国華中嘉興陸軍病院第248班1940.12.13中国華中武昌陸軍病院第297班1941.12.18佐世保海軍病院第302班1941.10.15マニラ、病院船第362班1942.7.24大村海軍病院第539班1944.2.24中国華中呂武部隊第667班〃7.7大村海軍病院第711班〃10.13熊本第二陸軍病院第736班〃12.23別府海軍病院第785班1945.3.14針尾海軍兵学校第886班〃7.1熊本陸軍病院第914班〃7.28佐世保海軍病院雲仙病舎(『日本赤十字社社史稿』第五巻「昭和一二~二〇年派遣救護班調べ」による)この表によれば、15班のうち11班は内地の陸海軍病院であり、その他は中国へ3班、マニラへ1班(混成班)となっている。そのうち殉職者は17人で、マニラ派遣の第302班ではマニラにアメリカ軍が上陸後に山中を敗走中、3人が犠牲となった。第362班では大村海軍病院から患者護送のための船中で攻撃を受けて殉職した救護看護婦がいた。Ⅲ手記に見る被爆者救護活動1長崎市内における救護活動日本赤十字社長崎支部の事務所と診療所は旧市街地の新橋町にあり、爆心地から3km離れていたが、強烈な爆風のために窓ガラスは飛び散り、室内の物品は散乱した。長崎支部の看護婦の1人は、1945年5月から東京の日本赤十字社中央病院内で救護看護婦長候補生として教育を受けていたが、東京への空襲が激化したので一時帰郷を命じられ、その報告のために長崎支部に来たのち診療所に寄った際に原爆投下に遭遇した。「広島と同じ新型爆弾とは後でわかったことであって、その時は、ピカーッ、ガラガラという、すさまじい音と、眼を刺す光でした。稲妻のように思えました。(中略)気がついてみるとガラスによる切り傷や、棚のものが落ちて受けた打撲傷やら、頭からほこりまみれとなっていました。原爆投下後しばらくすると支部診療所には、けが人が続々と詰めかけてきはじめました。血を流しながらはだしで歩いて来る人、泣きながら走りこんでくる女の人、急造担架で運ばれてきたお年寄りなどで、さほど広くもない支部は一杯になってしまいました。この人たちが求めてくる所は、やはりわが赤十字だったのです。次々と詰めかけてくる患者の治療に、ただもう夢中で当たりました。」(「耳の穴でうごめくウジ」『閃光の影で』)190人道研究ジャーナルVol. 4, 2015