ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015長崎市に近い諫早市や大村市の海軍病院からは、被爆当日の午後に軍医・衛生兵・看護婦からなる特別救護隊が派遣された。被爆後4~5時間後にまず佐世保海軍病院諫早分院の救護隊が、諫早街道の日見トンネルを経て長崎旧市街に入り、伊良林国民学校(爆心地から4 .3km)を救護所として救護活動を開始した。救護に従事した看護婦は諫早分院に派遣されていた赤十字救護看護婦であった。大村海軍病院は8月1日の長崎市空襲の折にも、長崎支部第362班を中心に佐賀支部第452班を加えた救護隊を長崎市へ派遣していたが、9日にもすぐに救護隊派遣を決めた。この救護隊には長崎支部第362班8人と佐賀支部第594班6人、同第452班1人の15人の救護看護婦が加わった。(12)大村海軍病院院長の泰山弘道は、長崎に投下された新型爆弾が原子爆弾であることをすでに判断し、救護隊の派遣に際して、「原子放射能の危険を承知して決死の覚悟にて出発することになった」と、のちに手記に記している(13)。救護隊が乗ったトラックが長崎市に近づくと、市内から歩いて避難して来る人たちと出会った。いずれも衣服が焼けちぎれていて、「早く行ってください、大変です」と助けを求められた。市内に入ると、まるで生き地獄さながらの惨状がくりひろげられていた。長崎駅前から北方へ進んだが、前方の浦上方面は火の海であったため、その手前の井樋ノ口町の交番所前広場(爆心地から1 .6km)に治療所を開設し、三班に分かれて救護を開始した(「大村海軍病院救護隊報告書」)(14)。救護看護婦の中には、交番横の御舟川にかかる橋の上や近くの防空壕の中で、負傷者の救護に従事した人たちもいた。「被爆者のだれもが激しい爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、痛ましい姿。なかには、力尽き果て冷たい姿となった母親の上に横たわる幼な子、そのなまなましい姿、この世のものとは思えない地獄の様相を呈していた。道路上に横たわる負傷者までは手が届かず、救護所まで歩いてくる患者だけを応急処置するのが精いっぱいだった。」(「私も原爆当日、爆心地に入った救護隊員」『閃光の影で』)「応急手当ては迅速になされました。被爆の皆さんは素足で着物は破れ全身汚れて、言葉を交わす暇もなく夢中で手当てをしました。やけど(熱傷)の方には、洗面器にリバノール肝油を入れて、一反のガーゼを適当に切り、両手でガーゼを液につけて、ベタベタ患部に塗布、包帯を次々しました。しばらくして、聖徳寺のガケ下の防空壕に負傷者がいるとのことで、私はそこに行くように命じられました。防空壕の被爆者の方々は、裸で折り重なるようにして、水、水、の声も力尽きて虫の息、求められる水は一滴もなく、私は強心剤の注射をしてやるよりどうすることもできませんでした。」(「原爆当日爆心地への救護」『閃光の影で』)大村海軍病院から続いて出発した第二次救護隊には、長崎支部第362班の2人、佐賀支部第452班の1人、徳島支部第500班の1人の救護看護婦が加わった。この救護隊も諫早街道から長崎市人道研究ジャーナルVol. 4, 2015191