ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015内に入り、伝馬船で長崎湾を渡って稲佐山の麓の稲佐国民学校(爆心地から1 .9km)内で救護を開始した(15)。被災地を歩いている途中、連合国軍の捕虜が担架で負傷者を運ぶ姿を目撃した救護看護婦もいた。「道路の破壊は著しく、がれきの道には、被災した人が家財道具を持って諫早方面へ避難する人波でごったがえし、その間をぬって被災地へと急いだ。途中の電柱はまだ炎が残り、三菱造船所の巨大な鉄骨が無気味なまでに大きく波のように曲がり、近くには外国兵で捕りょとなっている人が担架で救護に当たっている姿もあった。」(「これからの人生を有意義に」『閃光の影で』)当時の長崎市には福岡俘虜収容所の第二分所(香焼島)と第十四分所(幸町)があり、第十四分所は爆心地から1 .7kmの距離にあったため、建物は壊滅し犠牲者が出た。捕虜の国籍はオランダ人(インドネシア人含む)、オーストラリア人、イギリス人などで、造船所や鋳造工場での労働に従事していたが、資材不足のためや空襲が続いたために、近くの丘陵で防空壕掘りの作業をしていた人たちもいた。また交替で収容所に帰り休憩中の人もいた(16)。崩壊した建物の中から外に出た捕虜たちが、市街の消火に協力し、市民の負傷者を搬送したり、包帯を巻いてくれたという事例が、被爆市民の手記に中にみられ、この大惨状の中では敵も味方もなかったことが知られる。大村海軍病院の救護隊は、医薬品を使い果たしたのと夜間になったため、助けを求める被災者の声に心を残しながら帰途についたが、戻った病院には長崎から多数の被爆者が搬送されていて、休む暇もなく院内での救護を続けることとなった。なお大村海軍病院の救護隊は10日以後も連日派遣されている。2周辺地域における救護活動被爆により長崎駅・浦上駅は破壊されたが、線路の復旧が至急行われて、長崎駅から二駅目の道ノ尾駅から諫早市や大村市などの近隣地区への負傷者の搬送が始まった。佐世保海軍病院諫早分院(通称諫早海軍病院)は1942(昭和17)年に元製糸工場の建物を利用して開院し、九州・四国や岡山などの日本赤十字社各支部の救護班が派遣されていた。長崎市へ新型爆弾投下とともに閃光や原子雲をみた救護看護婦たちは、当日の午後には救護隊派遣に続いて、被災負傷者の受け入れ準備に追われることとなった。9日午後3時過ぎには最初の救援列車が諫早駅に到着し、駅前の臨時救護所はたちまち負傷者であふれた。「押し寄せる被爆者は一人一人がみんな重傷なのに、ここでは簡単な応急措置しかできないのです。骨折で肩からぶらりとさがった腕に、添える添え木もなければ、棒きれを拾うひまもありません。すすをまぶしたような黒焦げの皮膚は、ピンセットが触れるとぺらりとはげ落ちます。やけどを免れた者は、爆風で粉微塵に吹っ飛んだガラスの破片が体一面に突きささり、肌に砂粒をふりまいて押し付けたようです。」(「1枚のハガキから」『日赤愛媛支部百年史』)(17)192人道研究ジャーナルVol. 4, 2015