ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015何回も続いた臨時救護列車の運行が夜間に終わって病院に戻ると、病舎内は通路まで傷ついた被爆者で埋まって大修羅場を呈し、うめき声が建物を揺さぶっていたという。「被爆者は廊下まで溢れ、ゴッタ返し、衣服は汚れ、ちぎれ、火傷で薄黒紫に腫れ、ふくれ、皮膚は剥げ落ち、その惨状は目をおおうばかりでした。私は病院船、野戦病院と戦地勤務経験者でしたのに、胸せまる思いで、悲惨な状況はさながら生き地獄とはこんなことではと思ったこともしばしばでした。一時に多勢の老若男女幼児などの中を右往左往し、衣服の着替、渇を訴える者には水を与え、火傷で疼痛を訴える者は鋏で衣服を切り着替させ、又所持品については間違いのない様に取計らい、救急収容に万善を期し、殆ど徹夜の勤務でした。」(「諫早海軍病院の思い出」『長崎原爆による救護の思い出』)(18)大村海軍病院は、当時としては患者収容力1,700人を有する大病院であったが、近辺への度重なる空襲のため、入院患者を200人に限定していた。しかし見習い軍医官や教育中の衛生兵と日本赤十字社救護班がいたので、長崎被爆直後には前述のようにすぐに救護隊を派遣する一方、大村市長の要請を受けて1千人の被爆者収容の準備を開始した。9日の夜8時に最初の救援列車が大村駅に到着し、ただちに消防自動車やトラックで患者が病院に搬送されて来たが、その惨憺たる状態に最初は「誰もが息をのんで見守るだけ」であったという。患者を移動させようとしても「熱傷の血のりとコールタール状の粘液で、抱きかかえる手もすべりがち」であった。苦しみうごめく重傷者には末期の水を与え、苦しみのあまりにひどい患者にはモルヒネを使って、少しでも安らかにする他はなかった。「衛生兵や看護婦たちにも軍医の指示を待つことなくモルヒネを使うことを許した」と当時の軍医の手記に記されている(19)。9日夜の大村海軍病院での収容患者は758人であり、この戦場のような緊張状態の中で救護看護婦たちは、一睡もせずに看護業務に従事していた。「続々と運び込まれて来る被災者、その姿たるや、骨折、出血はもちろん皮膚は焼けただれ、とてもこの世の人とは思われません。男女の区別もほとんどつかず、ただうめき声がするばかりです。七転八倒の苦しみのようで、ベッドの下に転がり落ちたり、大勢の人が名前もわからず、何の処置も受けないうちに息を引き取っていくのです。真夏のことであり、放射能を受けているため、傷口の手当をしても、次の包帯交換までに傷口からウジ虫がはい出して来たり、次々と皮膚がはれて血が滲む、また背中一面にガラスの破片が刺さって、寝ることも出来ず、ベッドの上で坐ったままの人もおりました。」(「原爆患者に接して」『閃光の影で』)被爆翌日の10日になると、近辺からの救護隊がさらに増えていった。佐賀陸軍病院で勤務中の佐賀支部第713班の内の16人の救護看護婦も、9日深夜に佐賀駅を出発し10日朝に長与駅に到着して、長与駅前・長与国民学校・道ノ尾駅前の三班に分かれて救護活動を開始した。長崎市内から搬送されて来た被爆者たちの悲惨な姿を目前にした救護看護婦たちは、看護衣に着替える時間も惜しんで、濃紺色の制服姿のままで直ちに救護に従事したが、その時の状況をたまたま居合人道研究ジャーナルVol. 4, 2015193