ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015わせた報道カメラマンが撮影した写真が残っている。「道ノ尾駅の前の広場の臨時救護所には、真夏の暑い最中に、藁を敷いてその上に大勢の罹災者が寝ている上には、荒むしろが被せてある。それを見て、その悲惨さに、その場に立ちすくんで体がふるえてくる。気をとり直し着換える暇もなく次から次へと懸命に救急処置を行う。」(「長崎原爆被爆者救護記」『真白に細き手をのべて』)(20)まだ開通していない路線の上を歩いて長崎市に入り、防空壕内などの被爆者にも応急処置をしたが、翌日再び行ってみると、1人を残して全員が死亡していたこともあった。佐賀班は15日の終戦の日の夜に長与駅から佐賀市に帰り、20日から長崎の被爆者を収容した佐賀陸軍病院で再び救護活動に従事した。久留米陸軍病院からも看護婦30人を含む救護隊が9日夜に出発して、10日午前中に道ノ尾駅に到着し、三菱製鋼所を本部として各班に分かれ救護を開始した。多数の死傷者が出た長崎医科大学病院担当となった救護看護婦は、戦後30年を経ても長崎というだけで「恐ろしい地獄絵が浮かぶ」と手記の冒頭に述べている。「夜明けとともにたくさんの人々が押し寄せて来ます。気の狂った人、皮膚の焼けただれた人、髪の毛の落ちた人、赤痢の人々…。いつ果てるとも知れない患者たちです。(中略)二、三日過ぎて私たちはあまりに忙しく内勤(病院の中の勤務)外勤(防空壕の中の勤務)に分かれて処置をするようにしました。(中略)横穴防空壕はどんなに深く掘ってあっても全員死亡してしまいます。しかし防空壕で出産に立ちあった看護婦もいたようです。」(「地獄絵のような長崎原爆」『続ほづつのあとに』)(21)Ⅳ被爆後数日以内の救護活動日本赤十字社長崎支部では非常時の看護要員不足を補うために、在郷中の救護看護婦と、大阪赤十字病院の養成所で就学中の看護婦生徒たちに、電報で非常招集を行った。長崎支部は大正期以来、大阪赤十字病院に看護婦養成を委託していたが、大阪への空襲が激化したため一時帰郷させていた。電報を受け取った人たちは、交通が混乱しているにもかかわらず、ほぼ全員が新橋町の支部に参集し、直ちに長崎経済専門学校、(爆心地から2 .8km)に開設された救護所に赴いて救護を開始した。講堂や図書室などにむしろを敷いただけの救護所であったが、次々と負傷した被爆者が運ばれて来て、足の踏み場もないほど収容された。日中戦争開戦直後から佐世保海軍病院や中国におかれた陸軍病院に勤務し、重症患者や栄養失調患者などのきびしい状態の戦傷病者への看護体験をもつ救護看護婦でさえ、被爆した非戦闘員の市民たちの悲惨な姿に「非人道の極み」といえる思いを抱いたという。「被爆地で応急処置をしてから四、五日は経過していて、その間何の治療もしてありません。包帯をハサミで切り開くと、モリモリッとウジの山です。膿は吸い尽くされ、筋肉が引き込むほど食い込んでいるのです。首筋の血管も食い破られ、包帯を解くと同時に血液が噴き出194人道研究ジャーナルVol. 4, 2015