ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015る患者もおりました。(中略)家庭から供出した布切れでしょうか、それでウジ虫をこすり落とし、筋肉に食い込んでいるのをはしでつまみ出し、つるべにリバノール液を入れ、ガーゼを浸し、手で絞ってどんどん傷に当てました。」(「原爆投下時の私」『閃光の影で』)「日がたつにつれ今まで外傷一つなかった人が髪の毛が抜け始めて、つるつる坊主になり、全身に斑点が出来た。そして下痢、高熱を出し、次々に死んで行った。(中略)一方病室では全身やけどの人がお産が近まり大変な騒ぎ、(中略)元気な子供のうぶ声が聞こえたときは本当にすばらしいことだと思った。私どものあの原爆救護の悲惨な中でただ一つの明るい思い出として、いつまでも記憶に残ることでしょう。」(「全身やけどで無事出産」『閃光の影で』)長崎市役所に近い長崎市立図書館(興善町)の入り口に「特設救護病院の跡」と記された記念碑がある。被爆当時この地には新興善国民学校があり、緊急時の救護所に指定されていて、大規模な救護活動が行われたことが知られている。木造校舎の多かった当時、同校は三階建の鉄筋コンクリート造りで、爆心地から約3km離れていたが、窓枠ははずれ、窓ガラスが粉々となって飛び散り、教室内は吹き飛んだ物品で足の踏み場もない状態であった。類焼は免れたので、傷ついた被爆者が次々と運ばれてきて、地元の医師による治療の他に、11日には針尾海兵団の救護隊が到着して同校を本部としたのをはじめ、12日には佐世保海軍病院武雄分院の救護隊(赤十字救護看護婦20人を含む)も同校で救護を開始した。さらに終戦の翌日の16日には佐世保海軍病院から、長崎支部の第16班、第107班など長崎市出身の救護看護婦15人を含む救護隊が派遣されて来た。トラックに医薬品を満載して出発したが、外来診療と巡回救護でたちまち使い果たした。この新興善国民学校救護所では、外海の海岸から採取してきた新鮮な海水を利用してリバノール食塩水を作ったという。「薬品も不足し、網場まで海水を酌み取りに行き、ドラムかんで沸湯させ、冷えたのから使用しました。ウジを洗い流して食塩水湿布をしておりましたが、以外に治りが早かったようです。」(「海水を薬品代わりに」『閃光の影で』)「医薬品は佐世保海軍病院から持参したものを使用していましたが、それだけでは足りず、東望の浜から運ばれた海水で蒸留水の出来あがるのを待ってリバノールの粉末を溶き、リバノールガーゼを作りながら治療介助にあたりました。」(「変わりはてた姉にすがって」『閃光の影で』)海水の精製や食事の炊き出しは、近辺の地から出勤した婦人会の人たちが担当した。患者の傷口には、ちぎった新聞紙がはってあったり、着物の布切れを利用した包帯も見られたという。新興善国民学校救護所には、長崎支部からの召集状を受けて、長崎経済専門学校などで救護に従事していた救護看護婦と看護婦生徒たちも移って来た。その年の春に養成所に入学したばかりで臨床人道研究ジャーナルVol. 4, 2015195