ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015実習の体験にも乏しい看護婦生徒たちも、先輩の指導を受けながら教室を利用した病室で被爆者の命を救うために懸命に活動した。しかし、被爆時には傷がなかった人が、やがて頭髪が抜けたり、皮膚に紫斑ができ、高熱や出血に襲われる原爆症の発生が相次ぎ、死亡者は増加するばかりであった。「二階、三階の教室が病室に当てられ、そこには足の踏み場もないぐらい、重傷者がおり、何ともいえない悪臭が鼻をつきました。(中略)顔や背中が焼けただれ皮下組織が壊疽状態になった人がほとんどで、その傷の上をウジ虫がわがもの顔にはい回っていて、手当をするたびに取ってはみたものの、人出不足のため一人だけに長時間かかっている暇もなく、傷の悪臭にハエが寄ってくる始末です。(中略)傷が全く無く髪の毛をすくたびに束になって抜け、頭皮が見えるぐらいに薄くなり、歯ぐきから出血して皮膚には紫斑が出来、ぽっくり死亡される人もかなり多数おられました。」(「ローソクの灯で死体解剖」『閃光の影で』)終戦後になってから、被爆者救護のために転属になった救護班もあった。佐世保海軍病院小浜分院に勤務中の長崎支部第667班の救護看護婦たちは、9日の夕方に、焼けこげたシャツをまとい皮膚が焼けただれた人たちが、病院前に辿りついたのを見て応急処置をしたのが被爆者救護の始まりとなり、8月末には諫早分院へ転属となった。また、佐世保海軍病院諫早分院雲仙病舎に勤務中の長崎支部第914班も諫早分院へ移った。諫早分院には朝鮮半島から徴用されて来ていた人たちも多く、言葉の通じない「異国の人」にも差別のない看護を行い、死者が出たときには習い覚えた「アリランの歌」を共に歌って別れをしたという。「言葉はわからない、やけどや傷のある人、どこから手を付けてよいのか、全身布らしいものはまとっていない。夏の暑さと傷から出る血と膿のにおいで病室は異様な空気です。しかしそんなことはいってはおられません。「アイゴーアイゴー」と叫ぶような、訴えるような、異国の人の顔、顔、歯ぐきから出血している人、頭をさわると、髪の毛がズルッと抜ける人、これは死期の訪れを知らせる末期の症状でした。」(「看護婦さんゴザを苦痛のため死を急ぐ患者」『閃光の影で』)背部一面が焼けただれ、うつ伏せ状態のままのベッド生活の患者も多かった。三日前に広島市内で被爆し、さらに長崎市でも被爆した二重被爆者がいたことも、手記の中に記録されている。Ⅴまとめ救護看護婦たちの戦後長崎市が被爆して6日目に戦争は終結し、まもなく連合国軍総司令部(GHQ)の進駐となった。内地の陸海軍病院では、終戦後も傷病者のために日本赤十字社救護班の救護業務が続行し、さらに12月1日に軍病院が国立病院として発足後も、医療局長官の要請により勤務は続いた。また海外からの多数の復員者と引き揚げ者のための病院船や検疫所への救護班の派遣も新たに加わった。翌年2月6日には「日本赤十字社救護班派遣に関する協定」が成り(22)、これに基づいてさらに196人道研究ジャーナルVol. 4, 2015