ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015救護班数が増加し、被爆者救護に多忙であった長崎支部でも新たに5班が編成されて、佐世保検疫所と国立亀川病院・国立長崎病院へ派遣された。多くの救護看護婦たちにとっては、戦後の私生活はまだ訪れなかったのである。1995(平成7)年に第35回ナイチンゲール記章を受章した久村キヨ(長崎県出身)は、戦争末期にマニラの陸軍病院へ派遣され、終戦前後にはジャングル内での逃避行で悲惨な体験をしたが、帰国後は国立長崎病院に勤務して被爆者の救護に従事し、さらに長崎市立市民病院、放射線影響研究所に勤務したのち、新設の日本赤十字社長崎原爆病院の看護部長に就任した。原爆病院在職中の20余年間には、被爆者の社会復帰に尽力し、院外の被爆者検診に赴き、県外在住の被爆者検診にも尽くすなど、常に被爆者看護に視点をすえた活動を行った(23)。日本赤十字社の戦時救護班の活動は、軍隊の戦傷病者の看護業務のみと思われがちであるが、被爆時の救護対象者の大半は一般市民であった。また国内主要都市が受けた空襲の際にも救護看護婦が一般市民への救護活動をした。日本赤十字社ではすでに日中戦争勃発直後の1937(昭和12)年7月16日に各支部長あてに出した救護員召集準備に関する通達の中で、「空襲等による都市防衛に伴う民衆救護については出来得る限りの準備を整え置き、事態突発に際しては指令を待つことなく、率先他を指導して積極的に活動する如く計画し置くこと」という指示をしていた(24)。空襲時の被災者救護の他に、東南海地震(1944.12.7)や三河地震(1945.1.13)などの災害救護も行われた。戦時・平時を問わず、軍隊の戦傷病者だけでなく一般国民すべての生命を守るのが、救護看護婦たちの使命であった。救護班の解散後も国立病院に引き続き勤務した人や、他の病院に就職して、看護職を続けた人は多い。1958(昭和33)年に開院した日本赤十字社長崎原爆病院にも、被爆直後の救護活動に従事した人たちが就職して、被爆後10年を過ぎても体調不良が続く被爆患者の看護にあたった。『閃光の影で』(1980年刊)に手記を寄せた51人の中にも、看護職を続行中の人が多い。中には原爆により肉親のすべてを失い、戦後を懸命に生きぬいてきた人もいる。しかし同書には、刊行の11年前に永眠した元看護婦長への追悼文も見られる。この元看護婦長は、日中戦争開戦時から戦後12年間にわたって長崎支部診療所に勤務し、多くの後輩の世話をし、被爆の後には新興善国民学校の救護所で救護に従事した。その永眠を聞いて、誰しも被爆との関係を考えたことであろう。被爆翌日の朝に来援して道ノ尾駅前で被爆者救護に従事した佐賀支部の救護班は、終戦とともに佐賀へ戻り、引き続いて国立佐賀病院で外地からの復員者や引き揚げ者などの救護に追われた。しかしその中で体調が悪化し、翌年に原因不明の疾病で永眠した人もいた。長崎被爆から1年後のことであり、入市被爆が原因とも考えられる(25)。長崎支部救護班の「業務報告書」によれば、被爆当日に長崎市内に入り住民の救護に従事したある救護看護婦は、被爆直後の生き地獄を体験した影響のためか神経系の疾患と診断されて解任となった例もある。しかしこの人は戦後に看護職に就き、手記も書いている。戦後も看護職を続けた人の中にも、入市被爆の影響を疑われるような病気の体験者がいる。「放射線の影響でいつ病気が発症するのか分からず、ずっと不安を抱えて生きるのは本当に苦しいことです」と本人は今から5年前に語っている(26)。広島市と長崎市が被爆都市となってから70年を経た現在、被爆者と被爆者救護に従事した人たちは年ごとに減少し、当時の遺構も失われつつある。日本赤十字社救護班が70年前に向き合った人道研究ジャーナルVol. 4, 2015197