ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015<寄稿文>長崎~赤十字ゆかりの地を歩く~平成26年6月21日(土)~22日(日)の旅大西智子1長崎福済寺「長崎は今日も雨だった」という歌のように、小雨の降る長崎市内。傘を片手に、長崎駅前の上り坂を歩きます。私の目的地は「福済寺」(黄檗宗(禅))。1877年(明治10年)日赤の前身、「博愛社」が設立の許可を得て、ただちに西南戦争の負傷兵を救護した場所でもあり、いつか訪れたいと思っていました。勝海舟と坂本竜馬が共に宿を取ったこともある由緒ある寺です。現在の「福済寺」は、屋根が亀の甲羅の形をしていて、その上に立つ巨大な観音様が迎えてくださいます。亀の胸からお腹の中に「お邪魔します」と言って、入ったところがお堂です。当時、博愛社が担当した福済寺のお堂には、150人が運ばれたとか。西南戦争で野戦病院の役割を果たしたのは、九州全域にわたる数多くの寺だったそうです。初代社長の佐野常民さんをはじめ、設立に加わった人々にとっては、念願の赤十字組織を立ち上げた直後でもあり、ここでの活動は奮い立つほどの気の入りようだったに違いありません。しかし誕生して間もない「博愛社」の活躍には限りがあったことでしょう。刀傷や銃創を受けてから、ろくな消毒もされないままに、揺れる船でようやく長崎の寺にたどり着いた兵士たちは、傷の化膿による高熱と痛みのため、うなされていたことが想像できます。幸いにして手当てを受けられたとしても、感染症によって失われた命もあったと思われます。佐野さんが後に日本赤十字社への協力者に対して、西南戦争の悲劇を涙ながらに語った、という記録を読んだことを福済寺の暗いお堂の中で思い出しました。現在の「福済院」赤十字を創設したアンリー・デュナンのことも頭をよぎりました。150年前のイタリアで、4万人以上の死傷者を目の前にしたデュナン。人員も医薬品も不足する中、溢れるけが人を前に、救いたくても救えない状況があったことを「ソルフェリーノの思い出」に書き残しています。失われてゆく尊い命を前に悔し涙を流したか、流さなかったかは、判りませんが、佐野さんをはじめとする「博愛社」の関係者も、デュナンが感じた「救えない悔しさ」を抱いたのではないかと。「救いたくても救えない悔しさ」こそ、赤十字の原点なのかもしれません。1日本赤十字社総務部秘書課主査人道研究ジャーナルVol. 4, 2015199