ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015サンダー(オランダに帰国して結婚した令嬢との間に誕生)と共に日本に来ます。そのアレクサンダーはのちに日本赤十字社の設立のために奔走し、1884年ジュネーブで開催された赤十字国際会議に橋本綱常陸軍軍医監(博愛社病院初代院長)と共にオブザーバーとして出席した陰の立役者です。また次男のハインリッヒ・シーボルトも赤十字の初期社員として、活動を支えました。幼い彼らの写真が展示されています。シーボルト一家と赤十字、様々な角度から研究を重ねれば、未だ知られていない面白い事実が浮かび上がるかも知れません。立山防空壕(たてやまぼうくうごう)霧雨の中、一緒に長崎を訪れていた吉川龍子さんと鈴木路子さんとおしゃべりをしながら、ゆっくり坂を上り、辿りつきました。山の斜面に大きな入口の穴が3つ。中に入ると、外気とは少し違うひんやりとした空気が漂います。天井には所々に空気穴があり、声を発すると少し響きます。映画などで見たことがあるような、戦時中の各国軍部が使用するものに似ていました。ここは第二次大戦時の長崎県防空本部であり、原爆投下直後の救護要請の第一声が発された場所です。その声がきっかけとなり、日赤の救護員も長崎に向かいました。永野若松知事(参謀長長官)の参謀長室、上記の第一声が発された通信室、大勢の男性たちが寝る間もなく働いていた大部屋などを今も見ることが出来ます。昭和20年8月9日、壕内に爆風が吹き抜け、椅子から転げ落ちた人がいたとか。当時、長崎を救うために飛び交ったと思われる人々の声を想像しながら防空壕を後にしました。を入ると救護所メモリアルホールがあり、当時活動したナースたちの証言映像(日本語と英語)を見ることが出来ました。絞り出すような彼女たちの証言に、まるで70年前の現場を見ているような錯覚を覚えます。当時この場所に運ばれた被爆患者の数は、8月17日~31日の間(15日間)で合計8千人に上ったそうです(被爆直後の治療患者数は不明)。その後も市内最大の被爆患者の一括収容所でした。一部記録によると、治療には水が必要だったので、放射能に汚染された水を避けて、遠く東の海水を汲みに行き、台車で運び、煮沸して使用したとか。当時の赤十字の諸先輩方や地元の人たちによる必死の救護活動に思いを馳せ、頭を垂れずにはいられませんでした。また図書館の資料について鈴木さんに教えてもらったのですが、当時長崎に捕虜収容所があり、大半の捕虜が原爆で死亡したそうです。収容所の屋根には大きな赤十字マークが掲げられていたこと、原爆投下の前、収容所への食糧等物資の搬送には赤十字が協力していたことも知りました。赤十字関係者には是非一度立ち寄っていただきたい図書館です。1945長崎原爆被災(新興善国民学校)朝日新聞社提供長崎市立図書館同図書館は、原爆投下直後に全国各地から日赤看護婦ら救護班が駆けつけた救護所(当時:新興善国民学校)の跡地に建っています。玄関国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館「水」を求めて、多くの被爆者が亡くなりました。同祈念館の屋上にある「平和の泉」からは、水が静かに溢れ出し、建物内のいたるとこ人道研究ジャーナルVol. 4, 2015201