ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015ろに流れてゆきます。追悼の意を込めて作られたこのモダンな建築物は、それ自体が慰霊塔のようです。水の音に癒され、静かな気持ちになりました。館内の資料は閲覧が可能で、国際交流をその機能として掲げていることもあり、同祈念館に関するパンフレットは英語・仏語・ドイツ語・スペイン語・ロシア語・中国語・韓国語・アラビア語など多くの言語に訳されています。今も昔も、日本人には言語の壁を破ることが、運命的な課題として常に立ちはだかりますが、めげずに伝えるべきことを伝えてゆく努力が必要であり、日本人の義務であるようにも思えました。長崎原爆資料館たまたま期間限定の企画展「生と死のはざまで」が開催されており、会場に入りました。最初に目に飛び込んできたのが左の写真、救護員堤フサ子さんの姿です。70年前の8月9日と10日、救援列車が、爆心地から3 .5 kmに位置する道ノ尾駅に多くの被爆者を運び、草むらに降ろしました。写真を見ていると、救護員が10日に到着した時には、既に大勢の被爆者が居たのでしょう。真夏の酷暑の中、紺の制服を着替える間も、休む間もなく、その場に到着と同時に火傷の手当てをしていることがうかがえます。その美しさと真剣なまなざしは、東日本大震災の発生直後に、避難所となった体育館に駆け込んでいった救護員らの姿と重なって見えました。1994年8月のNHKスペシャルで報道された内容によると、彼女は、この救護活動から佐賀に帰ると体調を1945.8.10午後3時過ぎ長崎本線・道ノ尾駅前山端庸介撮影1945.8.10午後3時過ぎ長崎本線・道ノ尾駅前臨時援護所で手当てをする看護婦山端庸介撮影202人道研究ジャーナルVol. 4, 2015