ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015レイプと拷問を受けて、子どもを産めない身体になってしまった幼く美しい少女の家族が、尊厳のある涙を流す姿も見ました。家族を失って、新たな人生をたった一人で生きていかなければならない孤児たちの目に映し出される恐怖も、私の目に焼き付いています。炎天下の見知らぬ地1984年に配属されたスーダン北部のカッサラから、私は1986年の初めにケニアへ転任しました。スイスのジュネーブ本部にいる上司から唯一出された指示は、「スーダン南部から移送された戦傷者に何かできないか、見てきてくれ」というものでした。そこからスーダンとケニアの国境地帯での任務が始まったのです。ケニアの首都ナイロビにあるICRC地域代表部の口座に、5万ドルが緊急援助用に送金されました。しかし、いったい何をすればいいのか、「トゥルカナ」「ロキチョキオ」「トポサ人」などの言葉が何を意味するのか、見当もつきませんでした。スーダン南部がどのような場所なのかもわからず、ただ知っていたのは、それが文字通り南に位置するということだけでした。ナイロビのICRC地域代表部は、ケニア政府との取り決めによって、スーダンで活動することが許されていませんでした。そのため、私はスーダンの首都ハルツームにあるICRC代表部付きの「渡航派遣員」として現地に入ります。この私の立場をケニアの外務省と確認した後、ICRCのナイロビ地域代表部から借りた四輪駆動の車で地図上の小さな点を目指し、当時閉鎖されていたケニアとスーダンの国境へと向かいました。途中、ウガンダにあるICRC事務所から派遣された看護師が合流。彼女は、戦傷者を治療する際に専門的なアドバイスを提供する役割を任されていました。私たちはケニア北西部ロドワーを目指し、細くも舗装された道を進みました。ロドワーは後にケニアの初代大統領となるジョモ・ケニヤッタが、植民地時代にイギリス当局によって追放された地でもあります。地元当局からは活動を続ける許可を得られましたが、日没後に運転を続けるのは危険だったため、ロドワーで一晩過ごしました。地元のホテル「トゥルカナ・ロッジ」は、私が想像していたアフリカをしのぐ、居心地のあまり良くない宿だったことを覚えています。つらいドライブを経て、翌日カクマという街にある、アイルランドのカトリック系シスターが運営するミッション病院に立ち寄りました。そこでは現地の人々、そして内戦で負傷した南部スーダン人を対象とした医療活動が行われていました。病院は負傷者で溢れており、全員に十分な治療を提供する設備は整っていませんでした。そこにいても何もできなかった私たちは、またすぐ戻ってきます、という約束だけをして車に戻りました。しかし、国境へと続く道路は雨で泥と化し、結局病院で夜を明かすこととなりました。翌日、ついに国境付近のロキチョキオに到着しました。ロキチョキオは当時、小屋が並ぶ小さなアフリカの村で、半遊牧民のトゥルカナ人が暮らしていました。彼らが公共のサービスを受けることはほとんどなく、唯一存在していたのはカナダから来たプロテスタント系の宣教師家族が運営する診療所と、カクマから月に一度訪れるアイルランド人の医者による診察のみでした。ここもまた、スーダン内戦に端を発した人道的な被害に対応することができていませんでした。人道研究ジャーナルVol. 4, 201529