ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015国境を警備するケニア軍から許可を得た後、私たちは周辺に一時的に建てられたキャンプや村を訪問しました。そこでは、スーダンから避難したトポサ人がまとまって暮らしていました。私たちは一度、ロキチョキオを拠点としたスーダン南部のオペレーションを開始するようジュネーブ本部に要請するために、地域で唯一機能する公衆電話があるロドワーに戻りました。その途中、スーダン南部の最大都市ジュバに食料を届けようとしていた救援部隊に遭遇しました。過積載されたトラックは雨季特有の泥にはまり、彼らが順調に国境に辿り着くことができないのは明らかでした。そもそも、救援部隊を派遣した北欧の教会組織は、紛争で国境が閉鎖されていることを知りませんでした。私たちがロキチョキオですぐに活動を開始する旨を伝えると、なんと食料を全てICRCに寄付してくれたのです。本部からの5万ドルを使うことなく、私はオペレーションを開始するのに必要な大量の食料を手に入れることができたのです。ナイロビでは、ケニア赤十字社の協力のもと、必要なトラックや人員を確保しました。また、ケニア政府が無償で提供してくれたロキチョキオの地に、ICRC職員が暮らすキャンプを設置することが決まりました。こうして数日後、スーダン内戦に関わる全当事者の合意のもと、同地域で初の国境を越える人道支援活動が開始されたのです。当初私たちは飛行機を手配し、戦傷者をスーダン南部からケニア各地の病院に搬送していましたが、これが長期的な解決策ではないと気付き、ロキチョキオに一時的な外科病院を建てることになります。当初は一つの大きなテントに30床のみだったのが、10年後の一番忙しいときには600床を有する病院にまで拡大。のちに整形外科も併設されました。救援活動に関しては、ICRCはスーダン、ケニア、ウガンダを飛ぶ17機の飛行機を所有し、スーダン南部に向かうときは物資を積み、戻りは負傷者を搬送しました。日本赤十字社は、ロキチョキオで人員や物資の提供を通じて私たちをサポートしてくれた最初の赤十字社でした。地理、文化、気候、安全保障、食料、労働条件、環境など全てが日本と異なっている地で、ほとんど間断なく活動を続けていました。日本とは全く異なる環境であり、スーダン人の患者は、日本人の医師や看護師にとても興味を持っていました。彼らはアジア人を一度も見たことがなく、男性患者は常に看護師たちと結婚することを望んでいました。c CICR / HEGER, BorisロキチョキオにあるICRCの病院。患者に手当をする看護師が嫁ぎ、病院が労働力を失う代わりに、牛と看護師。ヤギを数頭渡す、との申し込みを受けたこともあります。私ではなくまずは看護師に確認してみなさい、と当時は笑って答えていましたが、困難な状況で患者を治療するにあたり素晴らしい技術を持っていた日本の看護師を手放すことは到底考えられませんでした。業務を続けていくうちに、国際的なNGOや国連機関もロキチョキオに入ってきました。活動の30人道研究ジャーナルVol. 4, 2015