ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015ピーク時にはWFPが新たな滑走路を建設し、この小さな村はケニアで3番目に離着陸の多い空港を持つまでになりました。そして、戦闘が国境地帯から離れたことで、ICRCもスーダン南部の内陸部での活動を決定し、ロキチョキオの病院は「一時的な開設」から20年後、閉鎖されることになったのです。しかし、いまだ残っているこの病院の壁には、日本人看護師の記憶が刻まれていると確信しています。私は、日本の歌手が自らの歌をもとにロキチョキオの日本人看護師と医師の活動を称える小説を書いたことを知らされました。これは名誉のあることであり、映画化もされるとのこと。赤十字の活動の記憶はロキチョキオだけに留まらず、小説化、映画化されて日本に戻ってくることができるのです。まるでケニアとスーダン南部国境のアフリカの茂みをなびかせる、暖かい風に吹かれるように。村の幽霊タイ、フィリピン、スーダン、エチオピア、スーダン南部とモザンビークでのミッションを終えた私は、アンゴラのICRC代表部を指揮する機会を得ました。当時アンゴラでは、「プラナルト」と呼ばれる高地と南部を支配する反政府勢力のアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)と、主要都市と沿岸部を支配する政府軍のアンゴラ解放人民運動(MPLA)の間で内戦が繰り広げられていました。1991年のビセス合意で一時的な停戦を迎えますが、その後紛争は再開することとなります。和平協定を履行する一つの条件は、戦時中に捕虜となった人々を全員解放することでした。ICRCは、全てのプロセスを監督していた国連、調停役のポルトガル、アメリカとソ連(現ロシア)からのオブザーバーの要請を受け、紛争当事者であるUNITAとMPLAの合意のもと、解放に関する業務を承認し、実現に向けてより具体的な計画に関与することになりました(1)。収容所における経験と専門性を長年培ってきたICRCは、数十か国で数十もの被拘束者や治安上の理由で拘束された人々、戦争捕虜を訪問してきました。アンゴラ内戦でもUNITAの支配地域の収容所を訪れていました。こうした経験から、捕虜の解放を確認するのに最適な組織だったのです。私はアンゴラでの経験を通じて、内戦がその国と国民に及ぼす影響を、身をもって実感しました。敵対する紛争当事者にはどちらにも、敵に殺されたり、捕虜として拘束された身内を持つ高官がたくさんいました。また、政治的な隔たりによって家族が離れ離れになり、兄弟同士が戦うということもありました。国外に避難することで離散を余儀なくされる家族もいました。紛争当事者の間の不信感は募りに募り、国家レベルはもちろん、個人レベルの和解も困難となっていました。捕虜の解放も、自由の獲得や、愛する家族との再会を象徴するというよりも、人道的な配慮からはほど遠い政治的プロセスの一部となりました。私たちは休日に関係なく、午前も午後も、紛争当事者が話したいと思ったときに、何時間、何日間にもわたる打ち合わせを繰り返して、数字の交渉をし、名前のリストを交換し、確認や監視体制について議論をしました。そうした苦労は報われ、解放業務は何百もの被拘束者にとって良い結果をもたらしました。現地人道研究ジャーナルVol. 4, 201531