ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015職員の同僚は、ICRCによって沿岸部の街ベンゲラから高地(プラナルト)の街ウアンボに送還された被拘束者の中に自分の父親を発見して、心臓が止まりそうになったと言っていました。彼は12年間父親の消息が分からず、不意打ちの攻撃で殺されたと思っていたのです。監視が厳重な収容所に隔離されていたため、彼の父親は外部との連絡をとることが許されていませんでした。また、別の家族は最初に解放されたグループの中に息子を見つけられなかったため、彼が亡くなったと思い込み、葬式を行って村の墓地に彼の墓石まで立てていました。数日後ICRCが息子を村に連れていったとき、誰もが彼の生きている姿を疑いの目で見ていました。なんせ、彼は数日前にすでに埋葬されたことになっているのですから!村人は幽霊だと思い込み、紛争中ずっと彼のことを忘れていた村に罰を与えに戻ってきたのだと言い始めます。村の人々は逃げて家をバリケードで囲み、茂みの中に隠れてしまったため、ものの数秒で誰も外にいなくなりました。この「幽霊」は人気のない通りで自身の名前を叫び、家々に向かって彼が生きていること、赤十字が彼を連れ戻してくれたこと、村に帰ってきて幸せだということを説明しました。そして、親族の名前を呼び、会いにきて欲しいと訴えかけました。恐怖心よりも好奇心を持った幼い少年がそのうち外へ出てきて、彼に初めて触りました。年配の女性も彼を触りに来て、いつの間にか村人たちが彼の周りに集まっていました。やがて、巨大な宴が開かれ、この息子の帰宅が盛大に祝われました。ネルソン・マンデラ:独房から大統領へ私は、アンゴラから直接南アフリカに転任となり、アパルトヘイト時代を経てマンデラ氏が率いることになる新政府樹立という重大な転換期において、現地のICRC代表部を任されることになりました。国政選挙へ向けた選挙活動が展開される中、武器を用いた暴力と凶暴な犯罪行為が状況を悪化させていました。ICRCは活動を拡大せざるを得なくなり、ピーク時には、国内に5つの副代表部(ブルームフォーンテン、ケイプタウン、ポート・エリザベス、ダーバン、プレトリア)と2つの移動チームを構えていました。白人の職員と黒人の現地職員が同じチームで働くのは、どこにいっても困難なことでした。主要都市の郊外にある白人が暮らす地区や当時オレンジ自由州と呼ばれていた地区では、黒人職員が差別を受け、北部のボフタツワナの自治区(「バントゥースタン」)や、ケープ州とナタール州の間に位置するトランスカイやシスカイ、そして「タウンシップ」と呼ばれる黒人居住区では、白人職員が襲撃されたり、暴言を吐かれたりしました。さまざまな勢力に同僚が危害を加えられることもありました。しかし、そうした暴力が存在する中で仕事をすることで、私たちはあらゆる当事者と渡り合う自信を身につけ、ICRCは国内で自由に活動することが可能となりました。被拘束者の訪問を通じて、解放運動の指導者と連絡を取り合うことができたのも事実です。彼らはアパルトヘイト政権によって自由を奪われていましたが、親族の訪問を通じて、赤十字の活動を邪魔しないように、と支持者たちにメッセージを伝えてくれました。1994年5月、私はICRC副総裁の同伴として、マンデラ大統領の就任式に招待されました。プレトリアのユニオンビルには、当時の各国首脳が集まっていました。32人道研究ジャーナルVol. 4, 2015