ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015ラ・ソース大学ジャック・シャピュイ, RN, MSc 1ラ・ソース(La Source):世界で最初の非宗教系看護学校ラ・ソースは、1859年、ヴァレリー・ドゥ・ガスパラン(Valerie de Gasparin)伯爵夫人2により、当時世界初の非宗教系看護学校として、スイスのローザンヌに設立された。ラ・ソースの開学は、看護師の養成が宗教と深くかかわってきたという長い伝統を打ち破るものであった。フローレンス・ナイチンゲール看護学校(Florence Nightingale School of Nursing)がロンドンに開校したのは、ラ・ソース開学の1年後の1860年であった。患者の看護にあたるということは単なるキリスト教の慈善行為ではなく、適切な教育を受け、自立した若い女性が専門職として行うことが最適であるとし、必ずしも教徒である必要はないというのが、この非宗教系看護学校の教育理念であった。現代のフェミニズム法理論に依拠することなく、ラ・ソース看護学校が開校されたことは、疑いもなく革新的なことで、女性の教育への道を開き、仕事の対価として報酬を得ることで女性の自律心が向上することとなった。155年間にわたるラ・ソース看護学校の歴史で、7,000人以上の卒業生を輩出し、新しいケアモデルとその教授法などを実践している。ヨーロッパを荒廃させた第一次・第二次世界大戦では、卒業生たちは、最前線に立ち戦争外科看護を実践し、ラ・ソースの国際的な名声を築いてきた。ラ・ソースは2002年まで、フランス語圏のスイス「赤十字」看護学校であった。その後、スイス西部総合大学(Haute Ecole Specialisee de SuisseOccidentale; HES-SO)を構成する看護大学となった。現在の名称は、ラ・ソース保健大学・研究所(Institut& Haute Ecole de la Sante La Source (La SourceInstitute and School of Nursing Sciences)、または略称でラ・ソースと呼ばれている。ラ・ソース大学のキャンパスcLa Source1ラ・ソース大学学長2編集者注ヴァレリー・ドゥ・ガスパラン(Valerie de Gasparin)伯爵夫人(1813-1894)は、大土地所有者d’Auguste-JacquesBoissierの娘としてジュネーブに生まれた。1837年にフランス人Agenor de Gasparin伯爵(1810-1871)と結婚。彼はプロテスタントを擁護し、1848年の新憲法制定に異議を唱えたことから、ルイ・ナポレオンと衝突し、1849年以降スイスのローザンヌに移住。1859年のソルフェリーノの戦いの直後にアンリ・デュナンがガスパラン伯爵夫人に書き送った北イタリアの惨状を、フランスのIllustration誌やJournal de Geneveに伝達したこと、そして誰宛に現金や救援物資を送ったら良いか知らせてほしいとした7月4日の書簡、同年7月8日と7月21日の書簡、さらに『ソルフェリーノの思い出』を朝方受け取り、夕刻には読破したと書き送った1862年12月13日の書簡が、「赤十字国際評論」に掲載されている。死の3ヵ月前の1910年7月に書かれたアンリ・デュナンの遺言書には、「ガスパラン夫妻が設立したラ・ソースに200フランを遺贈する」とある。(Henry Dunant, Mme de Gasparin and“AMemory of Solferino”, International Review of the Red Cross, No. 21, December 1962, pp.631-638参照)42人道研究ジャーナルVol. 4, 2015