ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies

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概要

The Journal of Humanitarian Studies

Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015(3)日本統治下での看護教育1917年4月、日本赤十字社朝鮮支部の看護養成規則が制定された。規則に則り選抜された看護師生徒は、朝鮮総督府医院4と大邱と平壌にある慈惠医院に委託され教育を受けた。1917年6月30日にソウルに学生寮が建てられ、1926年12月にはソウルの西大門区に市民のために赤十字病院が開院した。病院設立の理由は、(i)低所得者へ低廉の治療を提供すること、(ⅱ)病人、負傷者、兵士、彼らの遺族への治療、(ⅲ)看護師教育の3点である。1942年には京城赤十字病院と名前を変えた。1944年には一日当たり1,624人治療するこの国で最大の病院であったという記録がある。1923年、京城赤十字病院は看護師養成所を開設し、初年度に29名の生徒を受け入れた。1926年には朝鮮総督府の管理下に置かれ、この養成所の活動は正式認可を受けた。日本赤十字社の制度の下、訓練を終了した看護師は12年の応召義務が課され、平時には自分の生まれ故郷に留まることを誓約した。戦争勃発後は、救護員として招集され、戦地に派遣された。その当時の救護班は現在のような形ではなく、医師1人、看護師12人と使丁1人であった。救護班の看護師には、日本で招集された看護師と京城赤十字病院を卒業した看護師が採用された。主な派遣場所は満州、内モンゴル、間島省5、中国の内陸地域、鎮海6、会寧7、羅南8であった。1945年後半には、朝鮮支部は日本赤十字社から在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(USAMGIK)に移管された。大韓民国政府設立後の1949年4月30日に韓国赤十字法令が公表されるまでの間、朝鮮支部には、政治的混乱があった。それにも関わらず、看護師養成は続けられた。2)看護教育の発展(1945 - 2011)(1)看護高等学校(1945-1950)1945年、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁の中央行政組織である保健厚生部は看護事業局を設立し、看護師養成規則を発令した。看護師生徒の資格条件は4年間の中等教育を修了していることであった。入学を認められた生徒は3年間の養成課程を修了し、助産師の資格を得るにはもう1年受講する必要があった。初代校長はソウル赤十字病院の院長であった孫病院実習の様子c Red Cross College of Nursing, Chung-Ang University金聲博士であった。初年度は43人が入学し、内36人が卒業した。学生には制服代や寮費、食事代等として20,000ウォンが助成された。(2)看護高等専門学校(1950-1962)1948年の大韓民国政府設立に伴い、学校制度も刷新された。4年の中等教育は、3年の中学校とさらに3年の高校のカリキュラムに再編成された。数年間は前制度で教育を受けた生徒の入学許4訳者注前述の済衆院を名称変更した病院。現在のソウル国立大学病院の前身。5訳者注間島省は満州国にかつて存在した省。現在の吉林省延辺朝鮮族自治州に相当する。6訳者注鎮海は現在、大韓民国慶尚南道昌原市の一部。日本の統治下、日本海軍の軍港都市として発展した。7訳者注会寧市は、朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道に在る都市。豆満江沿岸に位置し、中華人民共和国の吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市と接する。古くは、豆満江沿岸六鎮の一津に数えられていた。8訳者注羅南は、現在、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市に属する区域。日本統治時代には第19師団が置かれ、軍都として知られた。人道研究ジャーナルVol. 4, 201581