ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015可を継続していた。その後、赤十字看護高等専門学校に改称した。学校設立承認権限は文教部9が1持っており、保健社会部0が監督および看護教育の資格についての管理を行った。朝鮮戦争勃発により、看護教育は中断されたが、ほとんどの学生は看護活動を継続していた。1951年の2月に、学校も一時的に西帰浦や済州島に場所を移し、教育を続けた。移転から2年半後の1953年7月に、ソウルに戻ってきたが、校舎と学生寮は破壊されていたため病院の空き室を教室として使い、授業は進められた。1953年9月、赤十字病院に勤務していた2人の英国人看護師が臨床実習と巡回診療の分野の授業を行った。1955年からは、軍病院と提携していた看護学校が閉校となったため、82人の陸軍看護師生徒向けの教育を委託され、3期にわたって実施した。看護教育の質を高めるために1958年からは入学時の学力を高等女学校と同等もしくはそれ以上のレベルとする要件に引き上げた。さらに履修科目数も増やし、臨床実習も強化した。それに伴い学費も上がり、学生は30,000ウォンの入学金と6,000ウォンの学費を払わねばならなくなった。1959年3月1日、看護高等学校は韓国赤十字病院から独立し、単体で運営されることになった。同時に、唯一の韓国赤十字社直属の教育機関となった。(3)看護学校から短期大学へ(1962-1997)1962年1月16日、赤十字看護学校として認可された。しかしながら、各種学校に分類されたためこの学校の生徒は4年制の大学に編入することができなかった。1970年、病院のトップを務めたこともある、洪永淑女史が、看護師として初めての校長にて就任した。1975年6月3日、赤十字学園が教育機関として認定され、1976年に専門学校として、短期大学と同等の地位を得ることとなった。1977年には、教員養成機関として、看護師免許と養護教諭の資格が同時に得られる機関に指定された。また政府事業である生涯教育普及の一環により、准看護師に対して1982年に夜間コースを開設し、定員も160人に増やして継続して教育が受けられる場を提供した。1978年2月からは専門誌を発行し、教授会の承認を得て2004年の27巻をもって最終刊とした。この短大は常勤の教授が臨床実習を受け持ち、さらに臨床教育に特別な役割を担う非常勤教授を任用することにより臨床実習の強化を行った。その結果、他の看護大学のモデルとなっていた。(4)看護短大(1998年10月-2011)韓国において学校設立権限をもつ教育部の方針により、1998年10月1日に看護短期大学に改組した。この学校は「救急と災害看護教育」を実施するために2年間政府から補助金を受けた。政府支援により、様々な災害看護の研究が実施され、幾多の国際セミナーを開催することができた。「救急と災害看護」は必須科目とされ、「保健と災害研究センター」も開設された。2011年に他大学と合併するまでは、毎年、学校予算の5-10%の政府補助があった。1974年に新しく建設された大学の校舎は1980年代と1990年代に2度改築されており、非常に狭くなっていた。4年制大学の資格も得るために、移転の計画もあったが、その計画はなくなり、短大のままにされた。最終的に2003年1月に起工式を行うことができ、面積8,033,95 m2、地上7階、地下4階の校舎は2005年9訳者注会寧市は、朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道に在る都市。豆満江沿岸に位置し、中華人民共和国の吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市と接する。古くは、豆満江沿岸六鎮の一津に数えられていた。10訳者注羅南は、現在、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市に属する区域。日本統治時代には第19師団が置かれ、軍都として知られた。82人道研究ジャーナルVol. 4, 2015