ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015日本赤十字看護教育125年の歴史1川原由佳里日本における赤十字の看護教育は1890年に開始され、2015年で125年を迎える。日本では赤十字出身の看護師はその優れた実践力により「日赤といえば看護婦、看護婦といえば日赤」と言われた時代もあり、特にその中心にあった日本赤十字看護大学からは、功績顕著な看護師に授与されるナイチンゲール記章受章者を40名も輩出するなど、高いレベルの看護教育が行われてきた。同大学はその歴史により、今も日本では看護教育の屈指の伝統校として認められている。同校が養成所時代、専門学校時代、短期大学時代を経て4年制大学になったのは1986年であり、それから約30年の間に、看護系大学の数は11校から250校を超える勢いで増加している。日本では医療技術の高度化や人々の健康問題の複雑化などから、看護への期待はますます高まっている。本稿では赤十字の看護教育125年の節目を記念し、日本における赤十字の看護教育の歴史について、その中心にあった日本赤十字看護大学に焦点をあてて振り返り、将来の発展に向けた一つの礎としたいと思う。1.日本における赤十字社19世紀中ごろ日本は、それまで政権を握っていた江戸幕府(武家政権)が倒れ、約300年にわたる鎖国とそれによる孤立状態から脱して、近代化の道を歩んだ。日本にとって近代化は、西欧諸国による開国および交易要請に応じたのちも、植民地化の圧力に屈しないための重要課題であった。歴史的にも異例な出来事であったが、日本では近代化を進めるため、政府の重要人物の多くがこぞって外遊し、西洋文明や思想を学び、様々な国情を経験した。のちに日本赤十字社の初代社長となる佐野常民が赤十字と出会ったのも、この時期である。彼は1867年に開催されたパリ万国博覧会で1963年に産声をあげたばかりの赤十字を、その後1873年ウィーン万国博覧会でさらに発展した赤十字を知った。彼は国際条約(ジュネーブ条約)に基づき「敵味方の区別なく救護する」という考えに共感した。日本赤十字社の前身となる博愛社が設立されたのは、1877年の内戦、西南戦争の折である。この内戦は新政権である明治政府に対して不平をもつ旧武士による武力反乱で、両軍あわせて1万3千を超える死傷者を出した。傷病者救護のため、当時、元老院議官であった佐野常民と大給恒は、西欧の赤十字と同様の団体をつくりたいと政府に対し博愛社の設立を願い出た。当初、この願いは敵味方の差別なく救護するという考えが理解されず、認められなかったが、佐野が征討総督有栖川宮熾仁親王に直接、願い出て勅許された。博愛社はその後、1886年の日本政府のジュネーブ条約加盟により、翌年に日本赤十字社と改称した。1日本赤十字看護大学准教授人道研究ジャーナルVol. 4, 201585